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松居大悟監督が本気でグサる映画を作るということ。映画『ちょっと思い出しただけ』

 スマホにインストールしてあるアプリに、1年前の今日、2年前の今日…の写真をワンタップで見ることができるってのがあって。なんだか日課のようにそれを開く。iPhoneの純正カメラロールにも、Google photoにも同じような機能はあるけれども、ただ、なんの装飾も衒いもなく淡々と8年くらい前の「今日」を突きつけてくるそのしょぼいアプリが何故か削除できない、できないまま何年も経っている。

 大抵の場合、「何年か前の今日」は今よりずっとマシで。いやかなりマシで。眺めていると、自分がどれだけ「若さ」とか「人」とか「友達」とか「女の子」とかを消費してきたか、甘えてきたか、助けられてきたか、そしてそして、歳を重ねるごとにそのツケを粛々と払っている自分の今、そう、1番最新の「今日」について考えてうなだれる。

「もうちょっとなんとかなんなかったのかよ。なあ?」

 松居大悟という映画監督が好きだ。
いや、松居大悟が作る映画が好きだ。器用なのか不器用なのかわからない時系列の錯綜、本気なのか冗談なのかわからない表現、そして、己の弱さと常に歯を食いしばって戦って映画や舞台を創り出し、それでいて作品のそこかしこに彼の涙や悲鳴、苦悩が隠そうとしても見えてしまう、それも含めての「松居大悟の作品」として昇華される、その瞬間に心が同期してしまう。

 2022年2月11日、初日に松居大悟の最新の表現『ちょっと思い出しただけ』を観に行った。プロットや流れは前情報で知っていたから、覚悟はしていたけれど、ド直球で抉られた。あんた、そんな球も投げられるんだ、と。
 池松壮亮、伊藤沙莉、クリープハイプ。これだけそろえればそりゃ、なんて気持ちは早々に消えて、ただ「今日」を遡る、離れていった二人がフィルムを巻き戻すように距離を縮めていく、そのリバースの物語をまっすぐに描く、いや、
 一本の線を消しゴムで少しずつ消していく、紡いだ糸をバラしていく、そんな話の最後に残るのは白紙でもなく無でもない、ということをただストレートに表現した、そんな作品と受け取った。

 何もかもが止まり、進む先さえ見えない世の中ならば、いっそ振り返ってみようと、マスクなんかしなくてもよかった頃に君と僕は出会ったんだよね、その瞬間を、その一日を、その「今日」を、今、進む脚を止め、踵をかえして見に行こう。浸る必要はない。泣く必要もない。ただ、ちょっと。
 ちょっとだけ思い出してみよう。
 それだけでいい。

 それだけでいいんですよね? 監督。

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