『業が深い』ってなんだよ。
「つくづく業が深いんだね」
と割と身近な人間に言われて、あらためて意味を調べてみたわけだ。
そうですか。
その通りかも知れないけれどもその業がなかったら今の自分は自分ではなくなっていたかもしれなくて、その業ってやつを背負うのと引き換えに、罪と悪に塗れる代わりに、人が見落とすことに気付く力と世の中に溢れる美しいものを際限なくインプットし続ける頭と心を授かった、いや、業の悪魔とトレードオフした。
だから、自分は綺麗じゃなくていい、みっともなくていい、恥ずかしくていい、ただ、生きていること、業だか罪だかから逃げられぬまま、それでもこの命をいつか光に変えるためにこの先も少しだけウンザリしながらとぼとぼと畦道を歩いていくんだろう。
新しい何かを見過ごすあいつ、サブスクで懐メロばかり再生してノスタルジーとやらに浸っている奴、FNS歌謡祭だかミュージックステーションだかに出てワンコーラスだけ歌うのをみてその音楽を知った気になるあんた、ティザーを30秒目にしただけでその映画を見るかどうか決めるおまえ、いや失礼、君たち、あなた方、貴方様、できればそんな「普通」の生き方がしたかったよ、できることならば。
「業」なんて無縁の、清らかで凪いでいて小さな幸せとか丁寧な暮らしとかに憧れるような、そんな生き方、歩き方、感じ方、命。
そんな感性で物事を見たことがないからわからないけど、理解できないかもしんないけど、少しは憧れた、羨んだ。
でも無理なんだ、生まれたときから、そう、「業」と言うなら言えばいい、それを抱きしめていたんだから、汚いものが美しく見えたり、簡単に割れる卵を可哀想と思ったり、血とか汗とか涙とか、およそ人間の体から排出される「痛み」が形になったものを、愛している、寄り添いたい、抱きしめたい。
そうやって業がいつか光に変わるまで、この感性を是が非でも守る、それはこの世の何よりも美しいんじゃないか。
「業が深い」ってなんだよ。なんなんだっていうんだ。それはたとえば誰しもが持つものではない、稀有で珍奇で不恰好で、でも、でも、どこまでもいつまでも美しい光なんじゃないのかよ。
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