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私の記事「北村紗衣という人」(2024年8月30日付)が、通報削除されました。

たぶん昨日(2024年9月13日)のことです。無論、私自身が「削除」したのではありません。
「管理者」からの事前通告もなく、いきなりの削除でした。

昨日のお昼すぎ頃、私自身の別の記事を見たら、当該記事「北村紗衣という人」へのリンク部分が、

『note この記事は閲覧できません』

となっていたのです。

(これが、削除された「傷跡」)

「閲覧」できないのではなく、要は、この記事で扱われた、「武蔵大学の教授」で「表象文化論学会」所属の学者でもある北村紗衣が、この記事に関し、「note」の管理者へ、「削除要請」の「通報」をしたから、記事が削除されてしまったのです。当人が「通報」しないことには、なかなか記事削除なんてされません。

(武蔵大学教授・北村紗衣先生の御著書)

北村紗衣が、私の記事「北村紗衣という人」の削除を望んでいたというのは、この記事が、2週間ほどで「138」もの「好き」をいただいた人気記事であり、すでに多くの人に読まれたものであることから推して、すでに「公然の事実」だといって良いでしょう。
何しろこの記事「北村紗衣という人」の中には、北村紗衣本人が削除を望んで「管理者通報した」と書いた、コメントのログも収録されていたからです。

それは、次のようなものでした。

『年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』

北村紗衣・2024年8月27日 09:36付け)

(北村紗衣先生の「批評理論」では、批評対象である人物の内心を推察して、否定的に評価することは、すべて「人格攻撃」ということになる。だがこれだと、現存人物の「人物評」は、提灯待ちのヨイショ以外は書けない。少なくとも、北村先生は書かせない)

このコメント自体は、「アメリカン・ニューシネマ」の評価をめぐって、北村紗衣と論争中だった須藤にわか氏自身が、北村からのクレームを受けて削除した記事、

・「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」
(※ 以下は、この記事の「改訂版」を受けて、「元記事」と記す)

のコメント欄に、北村紗衣本人が書き込んだもので、今回削除された私の記事「北村紗衣という人」に、それを「再録」していたのです。

この「元記事」もまた、北村紗衣からのクレームを受けて、須藤氏自身の判断によってすでに削除されており、現在では、この「元記事」をベースに、タイトルや内容に訂正を加えた「改訂版」たる、

・シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の個人的なニューシネマ観とはかなり違うことを書いていたのでそれを説明しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事〔改訂版〕

に差し替えられています。
そのため、当然、「元記事のコメント欄へのコメント」も、すべて削除されてしまいました。
だから私は、この「元記事のコメント欄のやりとり」を残し、事実関係を明らかにしておくべく、今回削除された記事「北村紗衣という人」を書き、そこに「コメント欄の関連コメント」を再録したのでした。

私は、この「元記事コメント欄のやりとり」から、そんなこともあろうかと、そのログとスクリーンショットを取っておいたし、それを再録した今回削除された記事「北村紗衣という人」でも、そうした記録はとってあると、そう書いていました。

つまり、そんな記事が、2週間ほども公開されていたのですから、よほど図太くなければ、「管理者への削除通報をしたというようなコメントはしていない(から、存在しなかった)」とは、北村紗衣本人はもとより、その取り巻きでも、さすがに強弁したりはしないはずです。
なお、北村紗衣は、公的言論人なので敬称は略し、須藤氏はアマチュアのブロガーなので「氏」を付しています)

ちなみに、どうして北村紗衣が、

『年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』

なんて「事実無根」なことを言い出したのか、その経緯についても、今回削除された私の記事「北村紗衣という人」で、詳しく説明していました。

要は、ことの発端となった「北村紗衣vs須藤にわか」論争における、批判者・須藤に対する、北村紗衣の反論たる、北村のブログ記事、

・須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について
(2024-08-25)

の内容が、あまりに酷かった(素人は専門家の考え方に従って当然、とするものだった)ので、私は、須藤氏の「元記事」のコメント欄に、氏を支持する旨の、次のような「一連のコメント」を投稿したのでした。
そして、それに対する北村紗衣の反応が、「あれ」だったのです。
なお、コメントの頭の(N-00)というのは、後で振った整理番号で、原コメントにはありません)

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(N-01)年間読書人
2024年8月25日 04:14

はじめまして。とても面白く読ませていただきました。
この北村紗衣っていう大学の先生、端的に言って馬鹿ですね。もちろん、学力が低いという意味ではなく、知的な謙虚さが無い、という意味です。
専門家の基本というのは、知らないことには謙虚である、ということです。
普通、専門家というのは、専門以外のことには、あまり口出しをしません。なぜなら、なんでも知っている人などいない以上、専門家というのは、専門外のことについては、ヘタにすると素人よりもさらに無知ってことも当たり前にあって、そんなことにヘタに口出しすると、ボロを出してしまい、本業(専門)に関しての信頼性まで損ないかねないからです。
だから、専門以外のことに口出しするときには、そのことについては「素人ですが」と断って(謙って)、その上で率直な意見を言うようにする、くらいのことは、自己防衛のためにも、当然するものです。
なのに、この人は、その程度のことも出来ていないというのは、「自分は知識などなくても、何でもそれなりに適切に判断できる、本質的知性を持っている」なんて、思い上がっているからです。その「勘違い」ぷりが、馬鹿だと言うのです。

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(N-02)年間読書人
2024年8月25日 05:11

また、こういう人が、フェミニストづらするから、無用に反フェミを増やしてもしまう。存在が傍迷惑という意味で、困った人だと思います。
私も、ここ2年ほど前から、映画を意識して見るようになった、映画の初心者ですが、この北村さんみたいに、頭の悪いことは書きません。
と言うか、私は、こういう遠慮のない書き方をする人間ですから、あんな「穴だらけ」なことを書いてたら、袋叩きにされるのは目に見えているからです。だから、その点では、実は慎重なので、よくレビューを書く場合に「この作家の本は初めて読むが」とか、そういう前フリをして、知ったかぶりはしません。あくまでも、現在の自分の立ち位置はこういうものだと示しておくのです。
その上で、その作家なり映画監督なりのWikipediaくらいは参照しますし、他の人の評価なんかも参照します。私とは評価の違う意見には、反論できるくらいのことは、レビューを書く前に考えておくわけですね。
それでこそ、自分の意見を書く意味もあるわけですし。

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(N-03)年間読書人
2024年8月25日 05:12

で、この北村さんに驚かされるのは、「アメリカン・ニューシネマ」について、Wikipediaすら参照せずに、知ったかぶりを語っている点です。しかもこの人、Wikipediaの運営にも関わってるとか。
Wikipediaが全面的に信用できるものだもは思いませんが、まったくの素人にとっては、基礎的な参考情報にならなるというのは確かなのに、どうして覗きもしなかったのか?

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(N-04)年間読書人
2024年8月25日 05:13

Wikipediaを見ていれば、「アメリカン・ニューシネマ」が、主として「ベトナム戦争」を背景とした、当時のアメリカ社会の閉塞感から来ているというのは、すぐにわかることですが、それにも気づいていない様子。
というのも、仮に「暴力やセックス」が前面に出る作品が多かったとしても、それは、それらを、肯定しているとはかぎらないからです。つまり、「暴力や(行きすぎた)セックス」描写とは、それに象徴されるものを否定するためにこそ、露悪的に描くことだって、当たり前にあるからです。
つまり、「暴力やセックス」描写があったとしても、その方向性は真逆である作品などいくらでもあるのに、それを十羽ひと絡げに語ることなどできないのは、わかりきった話です。なのにそれを、この北村さんは平気な顔をしてやっているから、心底呆れてしまう。

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(N-05)年間読書人
2024年8月25日 05:13

それに「アメリカン・ニューシネマ」という言葉の指す範囲が曖昧であり、厳密な定義など無い、というくらいのことは、常識で考えてもわかること。
ならば、「アメリカン・ニューシネマは、こういうものだ」というような断定的な言い方、ましてや否定的な言い方に慎重になるのは、馬鹿でなければ当然するはずの配慮です。
例えば「もちろん例外もあるが、一般的には、これこれといった特徴を持つ作品の指されることが多い」というような書き方をするはずなんですが、それが出来ていない。

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(N-06)年間読書人
2024年8月25日 05:13

これは貴兄も勘違いされているようですが、「ヌーヴェルヴァーグ」だって、厳密な定義なんてありません。
所詮はフランス語の「ニュー・ウェーブ」(新しい波)でしかなく、ゴダールらが出てきた当時に、誰か(新聞か雑誌)が「最近、助監督経験もない若者の作品が出てきて、元気がいいぞ。フランス映画のニュー・ウェーブだ」と、そんなことを言い出したことから、そのあたりの作家の作品を、ふわっと指すようになっただけで、例えば、その範囲を年号で限定するわけでもなければ、フランス国内に限定するわけでもありません。また『カイエ・デュ・シネマ』出身者に限定されるわけでもなければ、ましてや「内容的・形式的」な限定もない。しかしまた、何でもありでは意味がないので、例えば、トリュフォーの作品が全部「ヌーヴェルヴァーグ」の作品だとも言い難い。
つまり、ああした呼称の多くは、最初から自称したグループ名なんかを除けば、たいがいは何となく生まれてきた、便宜的な呼称でしかないんだから、内容的に厳密な定義なんてできないのは、わかりかった話なんですよね。

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(N-07)年間読書人
2024年8月25日 05:14

それを、それこそ『ダーティハリー』すら見てなかった素人が、「アメリカン・ニューシネマ」は「こういうものだ」なんて、知ったかぶりで語るのは、まさに「盲目、蛇に怖ず」ってやつだと思います。
そして、そうした態度の根底にあるのは「差別的な上から目線」。だから、そこで「フェミニストの恥さらし」にもなるわけです。
今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。

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つまり、北村紗衣は、私のこのコメントの、最後の部分である、

『今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』

だけを「切り取り」、さらにはそれを、

『年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメント』

「言い換えた」のです。
まるで私が、器物損壊の予告」でもしたかのように。

まあ、そうでも言わないと、管理者に削除してもらえないと考え、「誤解させよう」と、わざとこのような書き換えたのでしょう。

普通に文章が読める人なら、私の『今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』という言葉は、「物としての本」を物理的に「切り刻む」と言っているのではなく、「北村紗衣の本の内容」を「事細かに批判する」という意味で書いている、ということくらいは、さすがに明らかで、それでは削除されないに決まっているからです。

それなのに、北村紗衣は、そうとわかっていながらも、故意にこのように「書き換える」ことで、こうしたコメントを含む須藤氏の記事全体の削除を求める「管理者通報」を行い、それと同時に、記事の書き手である須藤氏当人に対しても、削除を迫ったのでした。

そしてその結果、須藤氏は、管理者による削除を待つことなく、自ら「記事を差し替える」ことで、このコメント欄でのやりとりを「削除」してしまったのです。

そんなわけで、私としては、アマチュアとは言え「言論人」の端くれとして、北村紗衣から「犯罪者呼ばわり」の「誹謗中傷」を受けた以上、それをそのまま見過ごしにするわけにはいかないので、一連の事情を紹介する当該記事「北村紗衣という人」を書き、そこに、すでに削除されてしまった、須藤氏の「元記事コメント欄におけるやりとりのログ」も収録して、事実関係を公に明らかにしたのでした。

私が、

『今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』

と書いたものを、北村紗衣が、

『年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメント』

と書き換えた事実。
そして、この「卑怯な書き換え」に対して、私が同じコメント欄で、

『北村紗衣先生

「通報」ですか、反論ではなく(笑)。
偉い先生は、無名の人間なんて、「同じ人間」としては扱えない、ということですね?
私は別に、先生の「物としての本」を切り刻むと言っているのではなく、その「内容」を「細かく批判的に分析する」という意味で書いているのですが、その意味が取れませんでしたか? それとも、「批評」自体を、否定なさるのでしようか?

あるいは、そんなことは全部承知の上で、わかっていて「管理者権力」に訴え、暴力で、目障りな私を「潰そう」と、お考えなのでしょうか?
また、東浩紀が、そのお言葉を読んだら、どう思うでしょうね?

いずれにしろそういうのは、「弱者の権利」を守るフェミニストとしては、褒められたものではないと思いますよ。

往年の江川卓の言葉、「そう興奮しないでください。落ち着いて話し合いましょうよ」ってことですね。』

(2024年8月27日 09:51付け)

とやり返した事実も、北村紗衣による二度にわたる「管理者通報」によって、最初は、須藤にわか氏によって、今回は(管理者)によって、すべて「削除」され、「証拠隠滅」されたのです。

これは、「議論の中身において、事の是非を決しようとする言論」に対する「弾圧」でなくて、いったい何なのでしょう?
これほどわかりやすい「言論弾圧」というのも、今どき珍しいのではないでしょうか?

繰り返して確認しますが、ここで決して見逃してならないのは、北村紗衣が、私に対して、一度として直接には反論せず、須藤にわか氏や「noteの管理者」に対してだけ、一方的なアピールを繰り返しているだけ、という事実です。

一一要は、北村紗衣は、須藤にわか氏に対しては反論しても、私との議論(当事者討論)は避けている、ということです。

この事実については、私は、須藤氏による「元記事コメント欄」におけるやりとりの段階で、すでに察していました。
だから、須藤氏へのコメントとして、次のようにも書いていたのです。

(N-16)年間読書人
2024年8月27日 12:28

須藤さん

お騒がせして、すみません。北村さんの批判に対しては、私の方で、それ専用のページを立ててもいいんですが、たぶん北村さんは乗ってこない(黙殺する)でしょう。

私がここでやっているのは、『マッシュ』でホークアイたちのやっているようなことだとご理解いただければ幸いです。
北村さんはまだお若いから、かっての「言葉狩り」問題の重大性をご存知ないのでしょう。
筒井康隆が「断筆宣言」して、やっと議論のテーブルに乗るようになり、今では「言葉尻をとらえて攻撃する」類いの「言葉狩り」は、「非民主主義的」なものだとも理解されるようになりました。

もちろん、言葉遣いには気をつけなければならないのですが、文学の世界には「毒舌」による批評の伝統があり、「アラーを冒涜した」ので、ラシュディ殺して良いという理屈は、一部狂信者以外には通用しません。
そしてこのことは、シェイクスピアの研究家である北村先生だって、重々ご承知のはずです。「言いたい放題の阿呆(道化)」の口を封じてはいけない、という知恵です。
「言葉狩り」の暴力ではなく、「言論には言論を」というのは、ごく常識的な議論だと思います。

ここで言う、冒頭の、

『お騒がせして、すみません。北村さんの批判に対しては、私の方で、それ専用のページを立ててもいいんですが、たぶん北村さんは乗ってこない(黙殺する)でしょう。』

というのは、要は、須藤氏の、自身の記事のコメント欄では「喧嘩しないでください」という意をうけての返事です。

『あと読書人さんはすいませんがここは俺のスペースで俺は平和にやっていきたいので喧嘩をしないでください』

須藤にわか ・2024年8月27日 12:19)

つまり、須藤氏の記事のコメント欄で、討論をやるのは、記事主である須藤氏の望まないところだったので、私としては、自分のところで、「北村紗衣との議論」専用の記事を立てて、その「コメント欄」を、北村紗衣と私との議論の場として提供しても良いと考えたのですが、しかし、北村紗衣のそれまでの、私に対する無視(黙殺ではない)からすれば、そういう場を設けても「きっと、議論に乗ってくることはないだろう。だから、最低限の反論だけは、させてもらったのだ」という趣旨のことを、私はここで須藤氏に説明しているのです。

ただ、私としても、須藤氏に迷惑をかけるのは本意ではないので、それまでの北村紗衣批判の、最低限の根拠提示だけに止めて、後は、このコメント欄については静観したのです。
ですが、その数日の後には、記事ごとコメント欄は削除され、新たに立てられた「改訂版」では、コメントの書き込みが禁じられたのでした。

したがって、こうした「やりとり(事情)のすべて」は、北村紗衣が望んだとおりの「削除」によって、隠蔽されてしまいました。

私に対する直接批判や反論は「一切なし」で、ただ、須藤にわか氏や「noteの管理者」などの「管理者権力」に訴えることで、自身への「批判」を弾圧し、その「証拠隠滅」まで行なったのです。

要は、これは「問答無用」であり、そこに生み出されたのはのは、ささやかなものとは言え「言論の死」だったということになります。

皆さんは、キリスト教会関係者の反ナチス運動組織「告白教会」の組織者の一人、マルチン・ニーメラー牧師の、あの有名な言葉をご存知でしょうか?

『ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。

それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。

それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。

さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。
一一丸山眞男訳、「現代における人間と政治」(1961年)』

(Wikipedia「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」

あるいは、「マルティン・ニーメラー財団」版の日本語訳だと、こうなっている。

『ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。

彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。

彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。

彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。』(同上

仮にも、北村紗衣は、「武蔵大学の教授」であり、「表象文化論学会」所属の学者であり、「フェミニスト」「批評家」を名乗って、公に発言して、文藝春秋や白水社や筑摩書房や書肆侃々房などの出版社から著作も刊行している、「公的な言論人」です。
かと言って、須藤にわか氏の批判へは反論したように、相手がアマチュアの場合は無視黙殺するというわけでもないのに、どうして私に対してだけは、いっさい反論をせぬまま、「管理者権力」に訴えることで、黙らせようとしたのでしょうか。

これが、露骨に差別的な「言論弾圧」でなくて、何なのでしょう?

「武蔵大学」の教授会の皆さんや、「表象文化論学会」の先生がたは、北村紗衣教授のこうした「やりくち」を、「言論人として真っ当なもの」だと、そうお考えになるのでしょうか?

それとも、いつの時代にもありがちなように、「不都合な話」については、無難に「見て見ぬふり」をなさるのでしょうか?

しかし、それは、大学などで若者たちを教え導く「教育者」の態度として、正しいものだと言えるのでしょうか?

「長いものには巻かれて、ずる賢く沈黙せよ」と、そんなふうに指導なさっているのでしょうか?

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今回削除された私の記事「北村紗衣という人」には、北村紗衣のこうした「ずる賢さ」を厳しく批判した、歴史学者で評論家の与那覇潤による、次のような記事も紹介され、私の解説も加えられていました。

(1)「北村紗衣・山内雁琳」訴訟の地裁判決を正しく読む

(2)ファンネル・オフェンスの諸問題(前回の記事を一部訂正します)

(3)お子様学者たちのファミリーレストラン:オープンレター「再炎上」余禄

(4)なぜ、学問を修めた「意識の高い人」がネットリンチに加わってしまうのか

つまり、与那覇が下のように語るとおりの人物である北村紗衣としては、私の記事「北村紗衣という人」の存在は、いかにも不都合だったのでしょう。

『実際、(※  与那覇の)連載の最中に北村氏はツイッターで、私の記事内容に事実誤認があると非難したが、6回目および7回目で反論されると沈黙した。「事実」を踏まえていたのは私(與那覇)であり、勘違いしていたのは本人(北村氏)であることが、証拠と共に提示されたからであろう。

事実を書いた記事を「事実誤認だ」と不当に誹謗するツイートは、名誉毀損や名誉感情侵害に問われる余地がある。私が(いまのところ)北村氏を民事で訴えていないのは、学者や言論人のトラブルはなるべく言論のみによって処理されるのが望ましいと考える、私の個人的なこだわりにすぎない。

しかし、上述の経緯――および自身の誤りが判明してからは沈黙するという北村氏の選択に反して、いまも私への中傷を続ける「北村支持者」がいる。先日、別の問題に際して論じた、いわゆるファンネル・オフェンスである。』

(「「北村紗衣・山内雁琳」訴訟の地裁判決を正しく読む」より)

北村紗衣は、こうした、自身に「不都合な事実」を世間に知らしめる私の記事「北村紗衣という人」が、目障りで仕方なかったのでしょう。

だが、かと言って、かつて、与那覇に事実無根の直接批判をして、逆捩じを喰らわされたという「痛い経験」から、北村紗衣は、私に対しては、直接に論戦は挑まず、もっぱら「裏から手を回す」という「得意の手口」に終始することにしたのでしょう。

この(1)の与那覇文に登場する「ファンネル・オフェンス」の問題を論じたのが、与那覇の(4)「ファンネル・オフェンスの諸問題(前回の記事を一部訂正します)」です。

今回の記事削除は、「ファンネル・オフェンス」による「管理者通報」であった可能性も低くはありません。

自分一人で通報しても、管理者がなかなか動いてくれないので、頭数を揃えて通報するというのは、「Twitter」や「mixi」において、かつて私が「ネット右翼」にやられたことでした。
「ネット右翼」というのも、多くの場合「保守政治家や思想家の取り巻きファン」なのですから、その意味では「ファンネル・オフェンス」の一種と言えるでしょう。
要は、「言論」ではなく、「頭数の暴力」を、その本質とするものなのです。

今回削除された記事「北村紗衣という人」でも説明しておいたとおり、「ファンネル・オフェンス」とは、自身の「取り巻き(やファン)」を、自身の「攻撃力」として利用することを言います。

『「ファンネル・オフェンス」とは、自分の取り巻き(フォロワーなど)による「ヤジ」などを、それも「自身の攻撃力」の内だとして、自覚的かつ積極的に利用する、ことである(当然、普通はそれを公言したり、認めたりはしない)。
だが、そんな「攻撃力」の高さを、思わず自慢げに語ってしまう人も、現にいるのである。

「須藤にわか」氏との「Twitterでの直接対論」において、この種の「北村」側の立場から発せられた「ファンネル(罵声や嘲弄)」の数々の存在を、もちろん「北村紗衣」氏は知っていた。
そうした事実を知っていながら、あえて「黙認した」のだから、これは「黙認した」としか言いようのない振舞いだし、これらの「ヤジ=ファンネル」は「北村紗衣氏のファンネル・オフェンス」だと認めるしかないだろう。
したがって、与那覇が言うとおり、そのような態度は、まったくもって「立派」ではない。それどころか、私に言わせれば「見下げ果てた、倫理的頽廃」だということにもなろう。』

ちなみに、北村紗衣のTwitter(※ 現「X」)のフォロワー数は「5万人弱」です。

これだけいれば、いちいち指示しなくても、「ボスの意を汲んで、自主的に動く」者が、数百人いたとしても不思議ではありません。
「ファンネル・オフェンス」の便利なところは、ボスがいちいち指示しなくてもよい点で、黒幕であるボスは「私が指示したことではない。彼らが勝手にやっとことだ」と、そう言い逃れしやすいところなのです。そうなることがわかっており、まさにそれを、期待していたんだとしても。

(北村紗衣と須藤にわかの、Twitter上でのやり取りに関して、「北村紗衣」側から放たれた「ヤジ(ファンネル)」のごく一部)

だから私は、「こんなこともあろうか」と、須藤氏の「元記事コメント欄」の段階ですでに、閲覧者に向けて、

『(N-14)年間読書人
2024年8月27日 10:24

ちなみに、ここをご覧の皆さんに申し添えておきますと、今のうちに、このコメント欄の「ログ」でも「スクリーンショット」でも、取っておくことをお勧めします。
「証拠隠滅」されてからでは遅いですからね。

記録さえ取っておけば、後からいくらでも検討することが可能です。

誰が「根拠を示しての批判をしたのか」。
誰が「議論(言論)を拒んだのか」。
誰が「問答無用の抹殺を試みたのか」。

「言論弾圧」というのは、必ずしも「国家権力」がやるものだとは限らず、弱者の顔をして「権力」を振るおうとする人だっている。

昔「部落解放同盟」が、暴力的な「総括」をやって、無理やり人を黙らせたために、今でもその「悪印象」が消えておらず、そこを「在特会」などにつけいられて、言いたい放題を許させざるを得なかったという事例は、とても教訓的なものだと思います。

つまり「大義名分」を振り翳して、問答無用で相手を黙らせようとするような態度は、決して「広く理解されることはない」ということです。』

と書いておきましたし、今回削除された記事「北村紗衣という人」の中でも、閲覧者向けの「追伸」として、同様の「注意喚起」をしておきました。
だから、何人かは「ログだのスクリーンショットだの魚拓」だのを取った人もあっただろうと思います。

しかし、いずれにしろ、北村紗衣のこんなやり方を、「身内」だからということで、「武蔵大学」や「表象文化論学会」の同僚やお仲間は「黙認」するのでしょうか。それが出来るのか?
それで、「教育者」として恥ずかしくはないのか、ということです。

ここまで書いてきたとおりで、北村紗衣という人本人は、すでに「手段を選ばない、非言論人」ですから、いくらこんなことを書いても、その心に響くことは金輪際ないでしょう。

でも、それで良いのか。
そんな「世の中」で良いのか。

文藝春秋白水社筑摩書房書肆侃々房など」の出版社は、その編集者は、北村紗衣のような人を、その「タレント学者」的な人気だけで、本が売れるからと持て囃すようなことしていて「恥ずかしくない」のか?

「不当な弾圧に抗した人」の伝記だの研究書などといった、立派な本を出していながら、その一方で、「同時代的には」北村紗衣のような人物を持て囃すのを、「恥」だとは思わないのでしょうか?
儲けされてくれれば、中身や倫理は問わないと、そういうことなのでしょうか?

一一そんな現実までも、「黙認」するのでしょうか?

そもそも、私と北村紗衣の「どちらがフェアであり、どちらがアンフェア(卑怯)」だとお考えなのでしょう。

私の方が「卑怯」だとするのであれば、是非ともその「理由」と「ロジック」を、お聞かせ願いたいものです。

いずれにしろ、こうしたことは、同時代的には「正しい批判」をした方が、その言葉尻を捉える「スラップ裁判」などにかけられて「損をする」場合も多々あります。

例えば、今回削除された記事「北村紗衣という人」の中で言及した、

・政党「日本維新の会」所属の元政治家で、元大阪府知事であった松井一郎に対する、タレント水道橋博士のよる批判と、それに対する報復としてのスラップ裁判

あるいは、

・評論家・佐藤優を「原発御用知識人として、電力会社から多額の広告報酬をもらっている」と告発した評論家・佐高信がかけられたスラップ裁判

などがそうです。

いや、もっと古い例を挙げればジャンヌ・ダルク裁判」だって、似たようなものと言えるでしょう。
要は、難癖をつけて黙らせるための裁判なのですから。

しかし、これらの事例のように、同時代の「裁判」では負けたとしても、どちらが正しかったかは、いずれ「歴史」が証明することでしょう。

「松井一郎と水道橋博士のどちらが」「佐藤優と佐高信のどちらが」正しく、どちらが恥ずべき人間だったのか。

あるいは、ベトナム戦争時、公然と徴兵忌避したモハメッド・アリと、彼を有罪した裁判官」の、どちらが「人として正しかった」のか。

北村紗衣はしばしば、自分の祖父が、昔「治安維持法で警察に捕まった」という話を誇らしげに語っています。
これは、当時の法律である「治安維持法」が間違っていたと、今となっては「歴史が証明した」から、北村紗衣は、祖父を自慢することもできるのでしょう。

ならば、北村紗衣は「歴史に恥じる」ようなこと、「歴史に裁かれて、有罪判決を受けるようなこと」を、すべきではなかったのではないでしょうか。

あえて問いますが、「歴史」は、私と北村紗衣の、どちらが正しかったと判定するでしょうか?

私は、自分の正しさに自信があるから、このように公然と批判反論し、一方の北村紗衣の方は、なぜか、こそこそと「裏から手を回す」ばかりです。

北村紗衣は、自身のそういうやり方を、祖父に恥じることはないのでしょうか?

無論、恥を知らなければ、恥じることもない、ということなのでしょうね。

でも、一度でも公けにされた、卑怯な振る舞いに対する「世間の烙印」は、当人が告白して反省しないかぎり、決して消えない「緋文字」なのだと、北村紗衣は、そう弁えるべきでした。

ともあれ、この記事もまた「通報削除」されるかも知れませんから、閲覧者の皆さんも、よければ、ログやスクリーンショットを取ったり、魚拓を作ったりしておいてください。
そしてそれを、自由にお使いください。
削除された「北村紗衣という人」にも書いたことですが、この記事も「著作権フリー」とさせていただきます。

(2024年9月14日)

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