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本能寺の変1852 その一因  一、光秀の年齢 そ小69~71 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ小69~71 

2光秀の年齢 2光秀と勝家・一益 

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【 重要史料 】 【 人物 】  
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 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

そ小69 そ第69話

 【参照】 ←テ第69話 ←◎第69話 ← 第69話

 1光秀は、現役の戦国武将。
  
光秀は、第一線に立つ指揮官である。
  大軍勢を率いた。
  その大半が、遠征だった。
  春・夏・秋・冬、季節を問わず。
  攻撃・迎撃、激戦の日々。
  野陣・長陣、大雨・乱風・降雪の日もあっただろう。
  食糧事情・衛生問題、等々。
  正に、体力勝負。
  戦い以外で、死ぬ者たちも、数多くいたものと思う。
  過酷な任務だった。
  老人には、出来ぬことである。

 2光秀の甲斐遠征。
  
天正十年1582、三月~四月。
  ルートは、次の通りである。
  近江→美濃→信濃→甲斐→駿河→遠江→三河→尾張→美濃→近江
  安土を起点として、総延長は、1000㎞近くになる。

 3光秀は、高齢であるがまだ老人ではない。
  遠征は、過酷な軍旅。
  肉体的負担が大きい。
  甲斐遠征のように、長期間となれば、なおさらである。
  光秀には、それが出来た。
  ということは、高齢であるがまだ老人ではない。
  しかし、着実に、老人に近づいていた。
  おそらく、これまでにない、疲労を感じていたのではないか。

 4中国攻めは、既定の作戦だった。
  「出陣は、来たる秋」
  それ故、光秀は、それに合わせ、そのつもりで行動していた。 
  中国攻めは、光秀が、これまでに経験したことのない大規模な
  長期大遠征となる。
  老人には、相応しからぬ役目。
  出来ぬことである。
  光秀には、それを遂行し得る、気力・体力・行動力があった。
  その様な年の頃だった。

  結果として、このパワーこそが、光秀を、「本能寺」へと向かわせる
  ことになる。

そ小70 そ第70話

 【参照】 ←テ第70話 ←◎第70話  ←第70話

 1信長の部将たち。
  以下、年齢は、天正十年1582時。

  
柴田勝家は、六十一歳。
  
大永二年1522の生れ。
  信長より、十二歳、年上。

  滝川一益は、五十八歳。
  
大永五年1525の生れ。
  信長より、九歳、年上。

  丹羽長秀は、四十八歳。
  
天文四年1535の生れ。
  信長の一つ下。

  羽柴秀吉は、四十六歳。
  
天文六年1537の生れ。
  信長の三つ下。

 2その最期。
  
柴田勝家は、六十二歳で敗死。
  翌年、四月。
  賤ヶ岳の合戦で、敗れる。
  北庄城にて、自害。
  享年、六十二。

  滝川一益にも、老人になる時が近づいていた。
  天正十年1582、三月二十三日。
  諏訪法華寺にて。
  信長は、間もなく、六十代に突入する一益に、名誉を与え、
  最後の花道をかざってやろうとした。 
 
  年罷り寄り、遠国へ遣はされ侯事、
  痛みおぼしめされ侯と雖(いえど)も、   【 重史 022】『信長公記』

  一益も、六十二歳で没。
  天正十四年1586、越前にて没す。
  享年、六十二。

  丹羽長秀は、五十一歳で没。
  天正十三年1585、病死か。
  自ら切腹した、とも云われる。

  羽柴秀吉も、六十二歳で没。
  
慶長三年1598、伏見城にて病死。

  勝家・一益、そして、秀吉。
  三人とも、同じ没年齢である。

そ小71 そ第71話

 【参照】 ←テ第71話  ←◎第71話 ←第71話

 1信長は、老臣たちの体力を気遣った。
  以下は、信長が、天正十年1582三月十七日、松井友閑に送った
  書状である(一部抜粋)。

  年寄ども呼び寄すべきと存じ候へども、
  路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
  罷り越すべからず候、         【 重史 019】「武家事紀」

  信長は、武将として、老人を用いない。 
  彼らには、体力に難があった。
  老人の足では、無理である、と言っている。

 2老人とは。
  やはり、「六十代」からであろう。
  そして、かつ、
  知力・気力・体力・行動力のバランスに変調を覚えた時。
  自身が、それを自覚した時からである。

  「代」としたのは、幅があるから。
  結局は、人、それぞれ。
  個人差がある。
  一概に、決めつけることなど出来ない。

 3光秀は、まだ、老人ではない。
  その一歩手前ぐらいの年齢だった。
  だが、その時は、確実に迫っていた。
  「是非もなし」、である。
  光秀は、人生のそのような時期に差し掛かっていた。

  光秀の長女は、永禄の初め頃に生まれた。
  三女が永禄六年1563の生れとすれば、そうなる。

  光秀は、弘治の終り頃に妻木氏を妻に迎えた。
  
弘治は、元年1555~三年1557の短期間。
  長女の誕生が永禄の初め頃だとすれば、大体、その頃になる。



 ⇒ 次へつづく

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