本能寺の変1582 重要 ◎第70話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第70話
11光秀の年齢 2光秀・勝家・一益 2/3
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*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
◎信長の部将たち。
◎柴田勝家は、六十一歳。
大永二年1522の生れ。
この時、六十一歳。
織田家の部将として、最長老である。
天正三年1575。
越前八郡を与えられた。
北庄城を居城とする。
北陸方面軍の総司令官である。
◎滝川一益は、五十八歳。
大永五年1525の生れ。
この時、五十八歳。
天正二年1574。
長島殲滅戦の後、北伊勢五郡を与えられた。
天正三年1575。
長篠の合戦に参陣。
天正八年1580。
北条氏の取次に任ぜられた。
天正十年1582、三月。
信忠の補佐役として、甲斐攻めに従軍。
田野で武田勝頼を討取った。
上野一国・信濃二郡を与えられ、東国の総取次を命じられる。
一益もまた、光秀同様、その行動範囲が広い。
正に、東奔西走。
信長の、あらゆる戦いに参陣している。
◎丹羽長秀は、四十八歳。
天文四年1535の生れ。
四十八歳。
信長の一つ下。
若くして、信長に仕えた。
股肱の臣である。
その信頼は、あつい。
佐和山城主。
若狭の支配を兼任。
天正三年1575。
長篠の合戦に参陣。
天正十年1582、五月。
信孝の補佐役として、四国出陣を命じられる。
◎羽柴秀吉は、四十六歳。
天文六年1537の生れ。
四十六歳。
長浜城主。
永禄十三年1573。
毛利取次になる。
天正三年1575。
長篠の合戦に参陣。
越前一揆殲滅戦に参陣。
天正五年1577。
播磨入国。
天正八年(1580)。
播磨平定。
但馬〃〃。
天正九年1581。
因幡平定。
淡路島攻略。
天正十年1582、三月。
備中高松城を包囲。
◎柴田勝家は、六十二歳で敗死。
信長より、十二歳、年上。
この時は、まだ、気力・体力・行動力のバランスが取れていた。
しかし、このわずか一年後。
翌年、四月。
賤ヶ岳の合戦で、敗れる。
北庄城にて、自害。
享年、六十二。
勝者となった秀吉は、勝家より、十五歳も若い。
◎滝川一益にも、老人になる時が近づいていた。
信長より、九歳、年上。
仕えたのは、天文の終り頃。
以来、三十有余年。
忠義一筋、実によく働いた。
◎信長は、一益に、配慮を示した。
以下は、天正十年1582三月二十三日、信長が、諏訪法華寺にて、
滝川一益に、上野一国と信濃二郡を与えた時の様子である。
三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、
上野国、幷(なら)びに、信州の内二郡下され侯。
信長は、間もなく、六十代に突入する一益に、名誉を与え、
最後の花道をかざってやろうとした。
年罷り寄り、遠国へ遣はされ侯事、
痛みおぼしめされ侯と雖(いえど)も、
関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、
東国の儀御取次彼れ是れ申しつくべきの旨上意、
忝くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下され、
此の御馬に乗り侯て、入国仕り侯へと、御諚。
都鄙の面目、此の節なり。
(『信長公記』)
◎一益も、六十二歳で没。
本能寺の変後、一益は、柴田勝家に与し、秀吉に反抗するも、
やがて、これに屈し、北伊勢の所領を全て没収された。
後、秀吉の家臣となる。
天正十四年1586、越前にて没す。
享年、六十二。
偶然にも、勝家と同じである。
⇒ 次へつづく
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