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本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ第70話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ第70話 

2光秀の年齢 2光秀と勝家・一益 2/3 

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 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

そ第70話

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1信長の部将たち。
  以下、年齢は、天正十年1582時。

 柴田勝家は、六十一歳。
 
大永二年1522の生れ。
 六十一歳。
 信長より、十二歳、年上。

 滝川一益は、五十八歳。
 
大永五年1525の生れ。
 五十八歳。
 信長より、九歳、年上。

 丹羽長秀は、四十八歳。
 
天文四年1535の生れ。
 四十八歳。
 信長の一つ下。

 羽柴秀吉は、四十六歳。
 
天文六年1537の生れ。
 四十六歳。
 信長の三つ下。

2その最期。
 柴田勝家は、六十二歳で敗死。

 翌年、四月。
 賤ヶ岳の合戦で、敗れる。
 北庄城にて、自害。
 享年、六十二。

 勝者となった秀吉は、勝家より、十五歳も若い。

 滝川一益にも、老人になる時が近づいていた。
 天正十年1582三月二十三日。
 信長は、諏訪法華寺にて、一益に、上野一国と信濃二郡を与えた。
 その時の様子である。
 信長は、間もなく、六十代に突入する一益に、名誉を与え、
 最後の花道をかざってやろうとした。 
 
  年罷り寄り、遠国へ遣はされ侯事、
  痛みおぼしめされ侯と雖(いえど)も、
               (【 重史 022】『信長公記』一部抜粋)

 一益も、六十二歳で没。
 本能寺の変後、一益は、柴田勝家に与し、秀吉に反抗するも、
 やがて、これに屈し、北伊勢の所領を全て没収された。
 後、秀吉の家臣となる。
 天正十四年1586、越前にて没す。
 享年、六十二。
 偶然にも、勝家と同じ。

 丹羽長秀は、五十一歳で没。
 天正十三年1585、病死か。
 自ら切腹した、とも云われる。

 羽柴秀吉も、六十二歳で没。
 
慶長三年1598、伏見城にて病死。
 さらに、偶然が重なった。
 勝家・一益、そして、秀吉。
 三人とも、同じ没年齢である。



 ⇒ 次へつづく


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