見出し画像

本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ第71話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ第71話 

2光秀の年齢 2光秀と勝家・一益 3/3 

はじめに ←目次 ←その一因 目次大 目次中 一、光秀の年齢 ← 
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 人物 】  
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

そ第71話

 【参照】 ←テ第71話 ← ◎第71話 ← 第71話

1信長は、老臣たちの体力を気遣った。
 以下は、信長が、天正十年1582三月十七日、松井友閑に送った書状
 である(一部抜粋)。

  年寄ども呼び寄すべきと存じ候へども、
  路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
  罷り越すべからず候、
          (【 重史 019】「武家事紀」「織田信長文書の研究」)

 信長は、武将として、老人を用いない。 
 彼らには、体力に難があった。
 「路次険難、老足叶うべからざる儀に候」
 老人の足では、無理である、と言っている。

2老人とは。
 やはり、「六十代」からであろう。
 そして、かつ。
 知力・気力・体力・行動力のバランスに変調を覚えた時。
 自身が、それを自覚した時からである。

 「代」としたのは、幅があるから。
 結局は、人、それぞれ。
 十人十色。
 百人百様。
 個人差がある。
 一概に、決めつけることなど出来ない。 

 当時の人々は、短命だった。
 それ故、現代の我々よりも早かった。 

 以上、縷々述べてきた。
 勝手ながら、ここでは、そうさせて頂く。

3光秀は、まだ、老人ではない。
 その一歩手前ぐらいの年齢だった。
 だが、その時は、確実に迫っていた。
 「是非もなし」、である。
 光秀は、人生のそのような時期に差し掛かっていた。

 光秀の長女は、永禄の初め頃に生まれた。
 三女が永禄六年1563の生れとすれば、そうなる。

 光秀は、弘治の終り頃に妻木氏を妻に迎えた。
 弘治は、元年1555~三年1557の短期間。
 長女の誕生が永禄の初め頃だとすれば、大体、その頃になる。



 ⇒ 次へつづく


NEW!!

目次 が更新されました。

 これで、全体像がよくわかる!!
 毎日更新!!
 原因・動機の究明は、この一歩から!!

重要 ◎目次 が更新されました。

 「本能寺の変」
 原因・動機は、この中にあり!!
 ご注目下さい!!

テーマ別 目次 が更新されました。

 視点を変えれば、見える景色も違ってくる!!

見えてきたもの 目次 が更新されました。

 これで、さらに、一歩、近づいた!!
 ご期待ください!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?