本能寺の変1582 【重史54】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史054】 「多聞院日記」
はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 目次中
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史054】 そ第157話②
①内裏の四面の築地の蓋(かさ)を、
②尾張の、をた(織田)の弾正、と云ふ物(者)、
③修理して進上申すべきの由
④料足四千貫計り、計上
「多聞院日記」
天文十二年1543
織田信秀が、内裏に四千貫を献上した。
信秀は、尾張の商業地帯を支配していた。
すなわち、経済力があった。
同年、二月。
内裏に、四千貫献上。
築地の修繕費用として。
奈良にも、その噂が、流れた。
多聞院英俊は、その額の大きさに驚いている。
十四日、
一、或る人、ヽ、
内裏の四面の築地の蓋(かさ)を、
尾張の、をた(織田)の弾正、と云ふ物(者)、
修理して進上申すべきの由、申し、
はや、料足四千貫計り、計上と云々、
事実に於いては、不思議の大営(行い)歟(か)、
(「多聞院日記」)
⇒ 次へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?