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締め切り設定力
締め切りを設定できる人ってすごいなって思う。
それはエネルギーの集中をデザインすることの一部。
決めるということ。
たとえ望むほどの精度がでていなくても、区切りをつけて、次に進んでいく。クオリティへの諦めなどでは決してなくて、エネルギーの滞りをとるための選択として。
守ることへのコミットとともにある締め切り。ここにどれだけリアリティを持たせられるか。
このあたりを少し、深めてゆきたいと思う。
「やり過ごせる力」をほぐす
アメリカ西海岸在住の日本人の友達がひさしぶりに日本にきている、しかも鎌倉に滞在しているというので、これは是非に!とランチに出かける。おいしいフォー(ベトナム料理)のお店に集合するも、なんと開店前からの行列で、開店時間に行くも次のラウンドまで待ちぼうけ。晴れ空の下、微風に吹かれながらのベンチトークもいいねと笑いあう。
関心のあることがいろいろと重なり、何気ないおしゃべりが妙に楽しく、まるで旧知の友
死にたくなりながら頑張らなくてもいいんじゃない?
気圧の影響による気分のブレがものすごい。数日前の雨の日のただ雨なだけでびっくりするほどのブルー。
「ダメだダメだダメだ・・・」と、さながら碇シンジ君ばりに頭を抱えて深〜い谷へと落ちていったと思ったら、翌朝を青空で迎えると、「ああ、なんて世界は素晴らしいのだろう」とびっくりするほどカラッとしている。人はかくも天候に気分が左右される生き物なのだろうか。梅雨が来るのが今から恐ろしい。
こんなにしんど
"力み"をとるチカラ
今が見頃の藤の花を眺めにスタバに訪れる日が続く。通りにはさつきの花が美しい。何故だか子どもの頃はさつきの花が少しも好きではなかった。ひょっとしたら、そんな名前をした演歌歌手のために、見たかったテレビ番組を奪われたからかもしれない。
力む、ということについて考えていた。
「力まないで」という指導を受けたことは幾度もある。スポーツの類においてそうであるし、演劇や合気道といったことにおいても、真剣に
すみっこに追いやられる「賢さ」
身の回りにいる多くの人たちが、マインドフルネス・瞑想の習慣を持っている。そして憧れる人たちのいく人もが走る習慣を持っている。
このうちマインドフルネスについて思うのは、子どもの頃には、こういうものを必要と感じることなど、まるでなかったな、ということ。
子どもでいた、ある時点までは、というのが正しいか。
それは雲の流れとか、虫とか、木々が揺れるのとかを見るのに夢中で、かくれんぼをしては見つから