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すみっこに追いやられる「賢さ」

身の回りにいる多くの人たちが、マインドフルネス・瞑想の習慣を持っている。そして憧れる人たちのいく人もが走る習慣を持っている。

このうちマインドフルネスについて思うのは、子どもの頃には、こういうものを必要と感じることなど、まるでなかったな、ということ。

子どもでいた、ある時点までは、というのが正しいか。

それは雲の流れとか、虫とか、木々が揺れるのとかを見るのに夢中で、かくれんぼをしては見つからないように気配を潜めるのに夢中で、短い休み時間にもむりやり遊びをねじ込むのに夢中で・・・。そう、夢中の連続だったからなのだろうか。触れなくてはならない情報が、主に目の前に起きていることや、せいぜいテレビや新聞で目にするものぐらいだったからだろうか。家の前の流れる小川に草舟を流して、その速さを競って遊ぶのも大好きだったなあ・・・。

そんな生活に戻っても、やっぱり時には、いま・ここに立ち止まるというのも、 - 生まれてからの歳月とともに、過去の厚みとその投影としての未来に包まれがちな自分にとっては - 必要なことなのだろうか。

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ひさしぶりにリン・ツイストの「ソウル・オブ・マネー」を読んでいる(正確には、audibleで聴いている)。

欠乏の物語か、潤沢の物語か。

本の中で紹介されていたピエール・テイヤール・ド・シャルダンの引用が心に残ったので記しておく。フランスのカトリック司祭で古生物学者・地質学者、カトリック思想家であった人。

以下が、英語で引用されたその言葉。

"We are not human beings having a spiritual experience; we are spiritual beings having a human experience."

- Pierre Teilhard de Chardin

"私たちはスピリチュアルな体験をしている人間なのではない。私たちは人間を体験しているスピリチュアルな存在なのだ" 

似て、非なるもの。

私たちが「理解」と呼ぶものの中には、このような差異があらゆるところに存在する。同じ言葉を話していて、同じことを知っていて、伝えているつもりになっているのに、実はその意味するところはずいぶんと違う。ということは、世の中のかなりの部分に当てはまる事実なのではなかろうか。

それを「なんとなく違う気がする」ではなく「明確に違うね」と言葉にすることは、こころのモヤを果たすばかりでなく、ものごとを見る解像度を高めるという意味で、人の役にも立つように思う。

大事だと思ったら、行動に移すと、こころによい。そうだよ。動きたがっているのだよ、こころは。

タイトルに書いた、すみっこに追われる「賢さ」とは、「賢さ」の中でも、世の中で重宝されがちな、人気者・マジョリティーに支持されるものもあれば、そうでないものもある。その理不尽を感じておいた言葉だ。「理路整然として結論が明確な」ことは「素晴らしい」とされ、「わからないけれど引っかかる」といった事柄は「整理してから話してよ」と冷たくあしらわれたあの時の「わかってないのはあんただろ」という、封印した叫びが疼き出す。「虎と翼」をきっかけに声を上げ始めた女たちの、私もその一人なのだ。

そしてこの傷を - 誰かを未熟として扱いたくなる衝動となって心の奥に眠っている傷を - 悼み、嘆き、労わることによって、人の尊厳のためにいかせるものに昇華してゆきたい。

それが力だ。

力の使い方において、私は賢明でありたい。そして、賢明である人のまなざしをイメージして、今日は眠りにつくのだ。