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一緒にいたい。
興味も関心も重なるのだけれど、どうしてだろう。ずっと一緒にいると少し疲れてしまうなあ・・・と相手に感じる時。
端的にいうとそれは「聴いてもらえていない」と反応が立ち上がる時で。
一緒にいるのに、言葉は交わしているのに
あれ、なんで私、ずっと聴く側にばかりたっているんだろう。
あれ、なんで私、話したことが受けとめてもらえた気持ちがしないのだろう。
あれ、なんで私、だんだんと疲れていくのだろう・・・となる。
その、なんだか噛み合わない関係性を変えていこうとする時。そのことを声にすること自体が、とてもエネルギーがいることだよね。相手が気分を害したら申し訳ないし。それで、我慢できる範囲で我慢する。ちょっとならできる我慢だけれど、それが度重なると「またか」となり、いつの間にか「あ、距離を置こうかな」って思う。
こころのすれ違いって、わかりやすいバチバチ音を立てるような衝突ではなく、静かに、気づかれないようなところで起きていることが多いんじゃないかな・・・。
一緒にいて。お互いここちよくいれたら、一緒にいることが嬉しい時間になれたらと思う時。そのともにいる嬉しさ、心地よさは一人じゃつくれないものだから。
「どうしたら一緒にここちよくいられるだろう」。そのことをさりげなくこころにおけるふたりであれたらいいな。
そのことに自然にこころが向いて、そしてそれがさらに、ときめくように楽しく軽やかでご機嫌なことにできたらいいな。
願わくば私の言葉が美しい詩を奏でるような響きであなたに届き、私もあなたの言葉を、ここちよい水のせせらぎを聞くように歓迎できたら気持ちいい。
そう考えると、仲間にしたいのは、想像力・遊び心・インスピレーション。そういうものかもしれないな。
ふたりの関係に「教育」を持ち込むのはなんだかちょっと残念。だからどうしたら、どっちかがどっちかを教え諭すみたいなのではないかたちで「これいいね」を共有できるのだろうか。そのことを考えている。
自然体やフローを大切にするからか。わたしは身近な関係性の中で、NVCそのものがなんであるのかをあまり語らないようにしている。お互いが新鮮に出会えることを大切にしたいから。
その意識的な選択をもちながらも。もしかしたらもう少し一歩踏み込んでできる何かがあるかもしれないな。「NVCとは何かを、知っている人として伝える」ということに、私が持っていそうな「卑しさ」のような感覚。この声に、ていねいに、耳を澄ましてあげよう。
私の中のアクセルとブレーキ。そうそう、すり減ったタイヤの点検もしてみるとよいかもしれないね。
一緒にいたい。ここちよく、軽やかに。ときに重たい気持ちも大丈夫なくらいに、健やかに、たくましく。
そのために、私とあなたがおもわず目線をあわせてしまう場所を、ともにみつけよう。
存在へのまなざしが拡張する世界への扉を。