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死にたくなりながら頑張らなくてもいいんじゃない?

気圧の影響による気分のブレがものすごい。数日前の雨の日のただ雨なだけでびっくりするほどのブルー。

「ダメだダメだダメだ・・・」と、さながら碇シンジ君ばりに頭を抱えて深〜い谷へと落ちていったと思ったら、翌朝を青空で迎えると、「ああ、なんて世界は素晴らしいのだろう」とびっくりするほどカラッとしている。人はかくも天候に気分が左右される生き物なのだろうか。梅雨が来るのが今から恐ろしい。

少し前、咲き始めたばかりの頃の藤の花。

こんなにしんどい時に、「それでも頑張れる人は立派で、頑張れない自分は落第者だ」と、厳しい教育者がダメな私を責め立てる。「ごめんなさい、ちゃんとします」と焦る私。「ちゃんとするなら成果出しなさいよ」とさらに叱りつける教育者の自分。行ったり来たりの間で、すっかり消耗してしまう状況を、内的葛藤としては理解するものの、身体の理解がついてゆけない。

「がんばらなきゃ」の声が強いとき「がんばらないこと」自体が「あってはならない選択」なのだ。「がんばれない」の声は、私の中で弾圧を受けた存在。そして、これはきっと、私が外的世界でも目の当たりにしてる体験なのだろう。でも、待って。「休むこと」、そんなに「ダメ」?。「ダウンする」こと、そんなに「情けないこと」なの?。

誰かがいっていた「健康であることが前提でまわっている社会こそが、不自然ではないか」という言葉が頭に過ぎる。対立・葛藤があることそのものは、むしろごく自然なことであり、また、人の体調が変化することもまた自然の摂理でもある。忌み嫌う代わりの向き合い方を手にすることで、楽になれるのは、当事者でもあり、ひいては社会全体ではなかろうか。

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今日(本noteは4月26日に記しました)は仲間から「社会的課題について考えること」について尋ねられ、語り、聴いてもらい、また私も尋ねた。それは国際情勢についてやコロナやワクチンのこと、フェイクニュースの事など。意見が異なると、ともすれば「説得合戦」になりがちな領域にあることだ。であるから、扱う事自体が緊張を伴う事案でもある。

・・という率直な感想も含めて語らいながら、私の中ではやはり変わらずにあるのは、以下のnoteに書いた、この問いだ。

Dehumanization(非人間化)に加担することなく、構造に切り込むための言葉を、私たちはどのように手にすることができるだろうか。

私たちが行き詰まる時。それは「問い」を問い直すことが求められているサインではないかと考える。正直なところ、どの情報が正しく、どれが歪められたものかというのは、判断が難しい。何かをきっかけに、それまで信じていた真実がすべてフェイクであったと気づかされることすらおこりうるだろう。なんであれ「そのような人たちは」と一括りにレッテルを貼る事で、そこにいる人たちの持つ人間性、想いや恐れ、葛藤をなかったことにすることは、あまりにも戦争に似たやり方ではないか。私はそれをしたくないのだ。

そして。大事なテーマを話そうとすると、どうも堅苦しい感じになってしまうでしょ。環境汚染、戦争、人権問題、etc. etc…。それを「意識を高く持つことが当然の如く求められる重苦しい問題」と捉える他に、より多くの希望を、自分の内側から湧いてくる力、衝動とともに育むことができるなら、何ができるだろうか。そんなことを考えている。

クリエイティブよ、目を覚ませ。なんてことを思っていたら、夢の中にまで、issue + designが出てきましたとさ…。

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さて。もどって、タイトルにつけた言葉について。

しんどいな、ダメだなー、という、自分ではいかんともし難い不調に陥っている時。そうだと思いながらも「頑張らなきゃ」とこんなに叱るその波動によって、細胞レベルで私はいったいどれだけ傷ついているのだろう。そしてそれはきっと、私を通じて表現された、遥か彼方昔から引き継がれている痛みの一部なのだろう。そんな考えが浮かび、何故だか手をあわせたくなった。