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「戦争」を前に思うこと

私たちは悲しみを抱えて生きているが、今日は殊更に悲しい。

途方にくれて、午後は眠りに落ちてしまった。そして、どのようにして自分のこころを安寧に結びつけてよいのかわからないまま夜がくる。

こどもの頃の私よ。「戦争って、わけわからない」といったあなた。私は今も同じ気持ちだ。たとえどんな解説がなされても、到底理解することが難しいこころの動きがこの世にはある。そして世界は紡がれ続ける。

いのちは尊い。たったそれだけを、重たくし過ぎず、あたり前のこころの共通言語にすることはできないだろうか。

何が遠い話で、何が近くのことなのかがよくわからない。

2022年2月24日。ロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まった。2022年2月26日。なんだかんだといって気にかかってしまいSNSから離れられずにいたのちの夜、カフェの片隅でこの文章を書いている。2022年2月22日。時刻や秒までこだわったスクリーンショットが日本のSNSを埋め尽くした「猫の日」の暢気さが、ものすごく遠い昔のようだ。

このおかしな世界の中で、本当に触れたいと切望する社会を築くための道標となる問いは何なのか。そのことを考えている。

Dehumanization(非人間化)に加担することなく、構造に切り込むための言葉を、私たちはどのように手にすることができるだろうか。

わかりやすく「敵」という対象を定義することによって私たちが本当に求めているものは何なのだろうか。私たちの内側にある痛みは。

この物語は私たちに何をみせて、何をみえなくさせているのだろう。

私たちにできることは、自分がいのちであることを忘れずにいること。そのものすごさのことを思い、自分を決して小さく見積もり過ぎないこと。

それから、私たちの創造性を養い続けることだ。さまざまな相互作用の力動のなかで。

昨晩、こんな言葉に出会った。


Peace is not the absence of conflict but the presence of creative alternatives for responding to conflict - alternatives to passive or aggressive responses, alternatives to violence. Dorothy Thompson

平和とは、「対立や葛藤」がない状態ではなく、「対立や葛藤」に応答する創造的な方法がある状態です。消極的な応答でも、攻撃的な応答でもなく、暴力でもなくそれらにとって代わる創造的な方法がある状態です。 
ドロシー・トンプソン

悲しみに打ちひしがれる人がいる。恐怖、怒り、名前のつけることの難しいたくさんの感情が蠢く。さまざまな塊が頭上を踏みつけてゆく。

叫ばせてくれ。罵らせてくれ。あるいは耳を塞がせてくれないか。

そりゃ、腹が立つ。どうしても止めなくてはならないことはある。だから声をあげる。行動力ある友人たちの姿に引け目を感じたりもしながら。

そして、その一方で、こうも考える。

「あの人たち(組織・集団)は、こういう人たちで、きっとこうなのだ」と、高見からひとくくりに言うことに良心の呵責がなければ、ひょっとしたら「世界」と向き合うことは、もっとシンプルで楽なのかもしれない。しかし、その見解に立つことを私のいのちは望んでいないのだと。

そして、アインシュタインのこの言葉を思い出す。

「いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で解決することはできない」  

Dehumanization(非人間化)に加担することなく、構造に切り込むための言葉を、私たちはどのように手にすることができるだろうか。

わからない。しかしこれは、大事な問いではないだろうか。

この葛藤は、きっと想像の泉を豊かに満たしてくれるはずだ。創造の源に深みを与えてくれるはずだ。何故ならそれは、誰の中にも希望をみることを諦めない視点だからだ。

そんなの言うほと簡単じゃないけれど、もしそこに立つことができたら、どれだけ多くの可能性を見ることができるだろうかと、私は想像する。

『「正しさ」で勝つ』という方法では、私たち人類がこころの奥深くに共有する痛みを、癒すことは難しいのだ。

前提を問う。それは理想主義ではなく、きわめて現実的な視点だ。

何も立派になろうとしているわけではない。こどもの頃の私との対話を、私は隅に追いやりたくないのだ。純粋さはいつも私のなかで息づき続ける。

葛藤はよろこんで受け入れよう。ごまかすよりもずっと豊かな視座が、そこにはきっと広がっていく。クリエイティブであろう。そして、身体を使って考えるのだ。

夜風は春の香りがする。

人のぬくもりに触れたいと思うのも無理もない。そんな夜に、どこかで息をしているあなたへ。