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「困りごと」を人に放り投げることができてしまう力

連休最終日ともなると観光地である鎌倉も少しは落ち着いた様相である。朝から曇り空で風が強いことも影響をしているのかもしれない。

朝、ジョギングをしながら、この先の予定のことなどを考えていた。参加しようとしている学びのプログラム。仲間から声をかけられ、動かそうとしているプロジェクト。

「やろう」と思うことの中には、いろいろのタイプがある。

「閃き、ワクワクして、思わずやってしまうようなこと」。これは、帰省中、朝のジョギングコースに「虎と翼」のロケ地が近いと気づき、そこを走るルートに入れ、「うお!」と感動し、写真をとって人にシェアしたことが、近い記憶だ。楽しそう、面白そう。気づくと身体が動いている。そういう軽やかな感覚。この感覚にある時の、身体の軽さよ、足取りの軽やかさよ。

「とりわけ重要でもないけれど、つい気にかけて、時間を注いでしまうこと」。SNSの投稿から、友人や仲間たちの発信をチェックしたりすることとか、ニュースの類をみることがこの領域にあたる。それは「いつもの定位置から、何気なく外を眺めるような感覚」とも言える。時に思いがけない風景に遭遇することもあるが、同時に「いつもと変わらぬなにか」を求める心理も働いているような。「予測可能であること」による安堵。(こういう心理が人にはあるのだと、震災などで被災した人たちを支援する活動にある人から伺ったことがある)

「必要だよね、なんとかしなきゃね」と思う類のこと。環境問題、差別や人権侵害、戦争などといった社会課題への向き合い。それが放置される社会に生きていることはあまりに苦しく、何かしらの行動にでる必要を感じる。痛みを抱え抑圧状態にある人たちを思うと苦しい。そして同時に、問題の大きさ・複雑さを前に無力感を感じる気持ちもある。悔しさややるせなさ。そういった感情が蠢くからだろうか。同時に「感じない」という力が出現しやすいのも、こういったフィールドの特徴でもある。それらエネルギーの大きさに圧倒されそうになりながら、この「重苦しく大変そうに思える課題」に携わることを支えてくれるものとは何なのだろう。

・・・というテーマと向き合いながら、こんなスケッチを書いてみた。

「なんとかしなきゃ」という「対応型」モード。それが大切であることと当時に、ここに長くい続けなくてはならないことはしんどい。これを救ってくれるのは「人が本当に健やかでしあわせに暮らすということはどういうことか」そして「そのための選択が、喜びからできるものであるなら、そこに何が起こるであろうか」というような想像・活動とも、同時につながりを持ち続けていることだ。無力感に押しつぶされそうな時、「自分たちのもつ、確かな力」にも目を向け、感謝し、励まし、育みあうことも、とてもとても大切な活動なのだ。

小さく、見落としてしまいそうなことにも目を向け、「ありがとう」といってあげること。それは確実に力になる。勇気をくれる。そういうことから始められることでもあるよな、いのちにやさしい、健やかな社会を育む行動って・・・。そんなことを考える。

平和を紡ぐ営みは、クリエイティブで、豊かで、乾いた大地に水がしみわたるような、生命の力を目覚めさせる活動なのだよ。本当に、きっと、絶対に。

さて。今日のタイトルはなかなかに強いので書くことに悩んだが、どこかで言葉にしておくことが必要と感じて、あえて触れておく(このnoteに使わせていただいたやわらかな水色のこの写真に感謝・・・。わかちあいたい質はそのあたたかなブルーにある)。

「困りごと」を人に放り投げることができてしまう力。これ、社会構造における力の差異を感じさせる、よく見受けられる現象に思う。「時間がないから発言時間を制限させていただきました」「決まりなのでそうさせていただきます」などといって遮ることのできてしまう力。権威や権力で一方的に何かを制御すること。それは、その人が力があるから、というより、その人が知っている中でもっとも効果的に思えた力の行使がそれであった、ということではないだろうか。社会的、構造的に与えられた「力」で押さえ込む。それがもっとも優れているかに見える方法だったのではないだろうか。だとしたら、それではない方法で、その人がより心地よく、自分も大切にしながら、関わりの中で生きることが可能なのだと信じることができたとしたならば、力の捉え方、使われ方が、違うものになることが可能なのではないか。

「障害」は関係性に置いて生じる。「障害」を「おわされる」側と「他人事にできる」側とがいる。ある、立場の高い人が、他者の生きる尊厳を奪うかのような発言をした。そういう言葉でしか表現し得なかったことが、その発言者の持つ「障害=困難さ」なのではないか。そしてその人は、立場の強さ上に、その障害を自分で引き受けず、他者に押しつけることが可能だった。その人の発言を遮る、といった方法で。これは - あらゆる「戦争」がそうであるように - 代理戦争の形をとった、暴力行為とも言えるのではなかろうか。

説明が必要な要素がまだある。この文章は未完成で、このあと少しずつ更新をかけていこうと思うが、ひとまず。午前中からずっとカフェに篭って描き続けていて、一旦の完了をしておかないとご飯が美味しく食べられなさそうなので、いったん、ここまで。2024/5/6の12:52、ここに筆を置く。

おちついたらまた、手をくわえていきます。