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「やり過ごせる力」をほぐす

アメリカ西海岸在住の日本人の友達がひさしぶりに日本にきている、しかも鎌倉に滞在しているというので、これは是非に!とランチに出かける。おいしいフォー(ベトナム料理)のお店に集合するも、なんと開店前からの行列で、開店時間に行くも次のラウンドまで待ちぼうけ。晴れ空の下、微風に吹かれながらのベンチトークもいいねと笑いあう。

関心のあることがいろいろと重なり、何気ないおしゃべりが妙に楽しく、まるで旧知の友のようにはしゃいでいるものの、実際は対面で会うのは初めて。オンラインで出会ってからも、まだ1-2年しか経っていない。しかもしっかりやりとりしたのは、あるプログラムの時間を共有した2日間あまりのことだ。それでもこうして話が弾む相手というのは、きっといくつかの人生でご縁があった人なのではないかと、輪廻転生を思わずにはいられない。いや、ひょっとしたら(いやきっと確実に)人類にもいくつかの種族があって、それは国籍とか人種とも違うタイプのもので、彼女と私は同じ種族に属しているような気がする(つまりは「波長があう」ということだ)。

食後のコーヒーをいただきながら話したのは、私が最近関心を向けている「感じる」と言う事柄についてだ。

「感情に意識を向ける」というと、多くの場合、激しく感情が揺さぶられた時のことを思い出し、あの時の感情は何だったのだろう?となりがちだ。そして私が最近とても関心を持っているのは、そのように自覚できるほどの感情の起伏がない状態のこと。なんなればさほど気にせずさくっと「やり過ごすことができてしまう力」というのを、私たちの多くが身につけてしまっている。「あれ?」とか「ん、微妙」とか思うことがあっても、それが騒ぎ立てるほどのことでもない場合「ま、いいか」とやり過ごすことができてしまう。これらは致命傷でもなく、応急処置が必要なことでもない。なのでケアされることも、まずない。しかし、実は私たちの感覚の麻痺は、こういった小さな積み重ねによって確実に形成されているのではなかろうか。いわば、感度の生活習慣病というようなカタチで。なんとなくの不具合が重なって、気づいた時には「ま、そんなもんだよね」となっている。「健康そうな不感生物」。それって、案外とっても簡単にできてしまうのではないか。

以前、金沢市の醤油工場を見学させていただいたことがある。蔵でねかせて、何ヶ月もの歳月をかけてようやく商品になる、丁寧につくられた醤油。それは、大量生産のために開発された技術でスピード生産されたものとはまったく違う。まったく違うが、大量生産されるものももちろん醤油の味はするし、なにしろ簡単に手に入るのがそっちということもあり、さほど気にせず日常に取り入れている。けれども、これをあじわうためにゆっくり時間をかけていただくと、その差はとても大きい。金沢市の高校で開催した授業では、生徒が「アトピーを抱えていた兄弟が、蔵の醤油なら食べることができた」と喜んでいたっけ。身体が敏感になってくると、違いに気づく感度が上がるのだ。

「やり過ごし癖」がしみついている私にやっとこさ気づき、関心を向け始めた「今」思う。「やり過ごさない」という方向に意識を切り替えた時、そこにはどんな風景が広がるのだろう。