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来戸 廉
2024年10月12日 09:32
「ちょっと出かけてくるよ」 それが、あの人の最後の言葉になろうとは夢にも思わなかった。 あの日、あの人は朝早くから秋葉原まで出掛けていった。 午後過ぎ、右手にどこかのパソコンショップの紙袋、左手にToposのケーキを持ってのご帰還。求める物が手に入ったようで、すこぶる上機嫌な夫は、私や子供達へのお土産を忘れていない。「お茶でも入れる?」「後でいいよ。先にやってしまうから」 そう言いな
2024年10月8日 08:01
郵送した方がよかったかしら。 エレベーターのドアが開いた時、私は後悔した。 でも、郵便受けにこの鍵を投げ入れれば、それで終わり。 自分を奮い立たせるように一歩を踏み出した。薄暗い廊下にコツコツと靴音だけが響く。ドアの前に立つと、想い出が走馬燈のように脳裏を巡り、私は軽いめまいを覚えた。 もう一度会いたい。 唐突にそんな思いが胸に湧き上がってきた。 それでどうなるって言うの、苦しい
2024年10月3日 13:31
トイレに時計を置こうと言い出したのは、夫だった。 一日に数回、数分を過ごすだけの狭い空間には要らないと思ったが、それ以外に取り立てて反対する理由もなかった。もし気に入らなければ片付けてしまえばいい。そう軽く考えて同意した。 数日後。 外出から戻って玄関のドアを開けるや否や、けたたましい音が私の耳に飛び込んできた。 どん、どん、どん、と壁を震わせている。何事かと、靴を脱ぐのももどかしく
2024年9月30日 10:00
「これは、なーに?」 健太が黄ばんだ一枚の紙切れを差し出す。「ん?」 手渡された四つ折りを開くと、鉛筆書きの拙い文字で『人は、なぜ生きているのか』と走り書きがある。多分、私の子供の頃の筆跡だ。「どこで見つけたんだ?」「この本に、挟んであった」 それは小学校低学年向けの昆虫の図鑑だった。教科書は疾うの昔に処分したのに、何故かこれだけは捨てられずに残していた。 私はしばし記憶の森を彷徨
2024年9月24日 09:44
ある日の午後。僕が塾に行こうと外に出たら、空からいっぱい雲が降ってきた。それは、音もなく道に落ちた。僕は、最初その白いふわふわとした塊を綿菓子だと思って拾い上げたが、一口囓って違うことに気づいて捨てた。よく見ると、歯形が付いたのが、道のあちこちに幾つも転がっている。 ――なーんだ。僕だけじゃなかったんだ。 僕はコンビニの前で信号を待ちながら、道路に転がった雲を器用に避けて走る車と、その度に
2024年8月29日 14:51
昨夜の雨が嘘のように、空は晴れ渡っている。雨に洗われた空気が一層透明感を増したようだ。 早秋の公園は昼下がりでも少し肌寒い。 久しぶりに訪れた公園の芝は、汚れを流して輝いている。山側に樹々が繁り、海側に芝生が養生されていて、その中を小径が通る。他には余計なものは何もない。そこが私が気に入ってる理由でもある。 葉を落として軽くなった樹の枝々の間から日が射して、芝の上に日溜まりを作っている。そ
2024年8月21日 14:17
「もう、パパ。早く出てよね。急いでいるんだから」 ドアのノブが、ガチャガチャ鳴る。「せかすな、今出る」「早くしてよ、もう」 二階のトイレ。ドアの外では、まだ不満が足踏みしている。「また本でも読んでるんでしょう。もう。持ち込まないでって、言ってるのに」 この騒ぎに、幸子を呼びに来た妻まで加わった。「ここが一番落ちつくんだよな」「朝は忙しいのよ。少しは、みんなの迷惑、考えてよ」 二
2024年8月12日 09:17
バス停では既に三人が待っていた。風が冷たい。 私はコートの襟を立て、ポケットに手を突っ込み、少し背中を丸めながら列の最後尾に付いた。綾子は寒さに強いのか、私が驚くほどの薄着だ。 暫くして、老夫婦が我々の後に並んだ。「ほら、ご覧。夏みかんの皮が剥けているよ」 声の方を向くと、老人が、家の庭先から道路に張り出した、枝もたわわに実る夏みかんの一つを指さしている。両の手で包んでも余りそうな大き
2024年8月7日 13:28
「もう大分暖かくなってきたから、そろそろ衣替えしなくちゃね」 縁側の日差しに包まれるとリンネルのシャツでは、ややもすればうっすら汗ばむほどだ。妻は、箪笥から冬物を引っぱり出して、クリーニングに出す物を選り分けている。「それ、好きだったな」 濃い萌葱色のセーター。二十年も前に買ったんだが、未だに古ぼけた感じがしない。「あなたのお気に入りですものね」「ああ。多少値が張っても、良い物はやっぱり
2024年8月5日 20:41
去年の正月に行われた中学の同窓会で、美鈴に会った。 カッちゃんと呼ばれたのは久しぶりだった。昔から明るい子だったが、二十年の月日がそれに輪を掛けていた。私が冗談を言ったり揶揄ったりする度に、美鈴はやだーっと笑いながら肩や腿を思い切り叩く。これには閉口した。 東京に戻って暫くすると、地元の友人がスナップ写真を送ってくれた。お礼の電話を入れると、友人は切り際に、美鈴の夫婦仲が悪いことを教えて
2024年5月7日 09:58
男は、夜のバスに乗り込んだ。この街を出るのに夜行バスを選んだことに、特別な理由などなかった。 ガラガラの車内、一番後ろの席に座るなり目を閉じた。眠れるはずはなかった。それでも目を瞑ったのは、迷いを断ち切りたかったから。 この街で過ごした三年間が、ボストンバック一個に詰まっている。あまりにちっぽけで、あまりにも軽い。自分がこの街で生きていたことが嘘のように思える。 男は歌で世に出たかった
2024年5月4日 09:04
少し怠くなってきていた。陽子との関係が、である。「別れましょうか?」 それは、絶妙のタイミングで、しかも「今日は、とてもいい天気ね」と言うのと同じくらい自然に、陽子の口から発せられた。「えっ?」 私は間の抜けた返事をした。 私は断言する。もし、この日より一日でも前か後だったら、私は二つ返事で「そうだな」と答えていただろう。 つきあい始めて、二年。陽子は今年で二十八歳。彼女の年齢を
2024年5月3日 08:01
その日、私はしこたま呑んだ。 上司からの急な誘いだった。妻への連絡が気になったが、酔うに連れて忘れてしまった。 ご機嫌でタクシーを降りた頃には、時計の針は疾うに深夜一時を回っていた。 高台にある住宅街。辺りはしんと寝静まっている。我が家の明かりもすっかり落ちて、鼻歌と靴音がやけに響く。 中腰で街灯を頼りにドアの鍵穴をまさぐっていると、居間に続き玄関の灯りが点いた。緩慢な動作で見上げる
2024年5月2日 08:48
日本シリーズ。両チーム三勝三敗で、優勝が掛かった最終戦。セ・リーグはG軍、パ・リーグはF軍。 九回裏、F軍の攻撃。同点で二死満塁。高橋投手が抑えれば、延長戦。三塁走者が帰ればF軍のサヨナラ勝ち、という絵に描いたような場面。 カウントは1ボール0ストライク。高橋投手は自信のあるスライダーを打者の膝元に投げ込んだ。橘選手は手を出せずに見送った。「ボール」 佐藤主審は右手を横に払う。 高橋