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来戸 廉
2024年5月7日 09:58
男は、夜のバスに乗り込んだ。この街を出るのに夜行バスを選んだことに、特別な理由などなかった。 ガラガラの車内、一番後ろの席に座るなり目を閉じた。眠れるはずはなかった。それでも目を瞑ったのは、迷いを断ち切りたかったから。 この街で過ごした三年間が、ボストンバック一個に詰まっている。あまりにちっぽけで、あまりにも軽い。自分がこの街で生きていたことが嘘のように思える。 男は歌で世に出たかった
2024年5月4日 09:04
少し怠くなってきていた。陽子との関係が、である。「別れましょうか?」 それは、絶妙のタイミングで、しかも「今日は、とてもいい天気ね」と言うのと同じくらい自然に、陽子の口から発せられた。「えっ?」 私は間抜けな返事をした。 私は断言する。もし、この日より一日でも前か後だったら、私は二つ返事で「そうだな」と答えていただろう。 つきあい始めて、二年。陽子は今年で二十八歳。彼女の年齢を考
2024年5月3日 08:01
その日、私はしこたま呑んだ。 上司からの急な誘いだった。妻への連絡が気になったが、酔うに連れて忘れてしまった。 ご機嫌でタクシーを降りた頃には、時計の針は疾うに深夜一時を回っていた。 高台にある住宅街。辺りはしんと寝静まっている。我が家の明かりもすっかり落ちて、鼻歌と靴音がやけに響く。 中腰で街灯を頼りにドアの鍵穴をまさぐっていると、居間に続き玄関の灯りが点いた。緩慢な動作で見上げる
2024年5月2日 08:48
日本シリーズ。両チーム三勝三敗で、優勝が掛かった最終戦。セ・リーグはG軍、パ・リーグはF軍。 九回裏、F軍の攻撃。同点で二死満塁。高橋投手が抑えれば、延長戦。三塁走者が帰ればF軍のサヨナラ勝ち、という絵に描いたような場面。 カウントは1ボール0ストライク。高橋投手は自信のあるスライダーを打者の膝元に投げ込んだ。橘選手は手を出せずに見送った。「ボール」 佐藤主審は右手を横に払う。 高橋
2024年5月1日 07:51
親父が、弟と腕相撲をしている。 高校一年になって、この頃めっきり体が出来てきた弟に苦戦している様子。「何だ、だらしねぇなあ」 俺が挑発すると、「遊んでいたんだよ」 親父はムキになる。弟の粘りも、ついにねじ伏せられた。「次は、お前だ」 親父が指をポキポキ鳴らす。「無理すんなって。息、あがってるじゃん」「いいから来い」「じゃあ、左でやろう」「セット」 弟が、二人の拳を押さ
2024年4月30日 07:49
「ねぇっ、夕食に何が食べたい?」 子供達の部屋に顔を出して、尋ねる。「別にっ、何でもいいよ」 次男が、マンガ本に見入ったまま、顔も上げずに答える。「あんたは」「俺も」 長男は、テレビゲームのコントローラを叩き続けている。「何でもいいわけないでしょ。気に入らないと、食べないくせに、もうっ」 つい声を荒げてしまう。 ――あーあっ、聞いた私が、馬鹿だった。 毎日の献立。考える私も疲れ
2024年4月29日 08:10
今年も我が家の軒下に、ツバメが新しく巣を作り始めた。 ちょうど去年の今頃。 ベランダに出た時、雛が弱々しく翼を震わしているのを見つけた。まだも羽毛も生え揃わず、目も開いていない。「おとうさん、ちょっと来て」 いたたまれなくなって、急いで夫を呼ぶ。「多分ツバメだと思うの、あの巣から落ちたみたい」 夫は、ティッシュを何枚か丸めて巣を作り、その中に雛を入れた。 力無く横たわっている雛を
2024年4月24日 07:40
夫が、私の誕生日プレゼントに手巻き式の腕時計をくれた。「俺のと同じメーカーの物だぞ」 夫はデジタル時計が好きでない。「高かったんでしょう?」「それほどでもない」「いくらしたの?」 答えないところを見ると、結構な額を出したようだ。 私は今使っている電池式で不満はなかったから、前もって聞かれれば他の物をおねだりしたのに。 手巻き式の腕時計は、巻き忘れると直ぐに止まってしまう。その
2024年4月23日 07:49
「それじゃ、だめだよ」 折り目が甘いし、翼の形も左右歪だけれど、君は一向に気にしない。「要は飛べばいいのよ」 私は片目をつぶって左右の翼のバランスを確かめる。君はそんな私を後目に、作りたての紙飛行機を持って庭に飛び出した。「仕様がないなあ」 定規で測ったように左右対称で、触れれば切れそうな程きっちり折り目を付けた私の飛行機は、それだけで美しいと思う。 私は、それを手に君を追いかけた。
2024年4月21日 09:33
いつだったか夫に尋ねたことがある。「子供の頃、何になりたかったの?」「古本屋のオヤジかな」 夫は即答した。その姿を想像したらおかしくて、笑いが止まらなくなった。「やっぱり変かぁ?」「いや、あまりに似合いすぎてる」 涙が出てきた。 あら、この本、結構面白いわね。 私は、ページをめくる手を速める。長い看病生活ですっかり本を読む習慣が身に付いた。そのせいか、夫の世界に少し近づいた気が
2024年4月20日 09:28
「そーっとだぞ」 靴のまま、僕は静かに川に足を入れる。「冷たいっ」 背中は焼けるように熱いのに、流れは痺れるほど冷たい。半ズボンの裾が濡れた。「そっちに回れ」 岸に生い茂った茅の葉が垂れ下がって水面に陰を作っている。そういう所が絶好のポイントだと、父から教わった。「下流の方から、そうっと近寄るんだ。でないと、人の臭いで魚が逃げてしまうぞ」 僕は抜き足差し足で近づく。 夏休み。父の
2024年4月19日 09:22
何で来てしまったんだろう。 学校で毎日顔を合わせていても話せないのに、二人きりで面と向かったら何にも言えず逃げ出してしまいそうだ。 しっかりしろ、聡美。 自分を鼓舞する。 明日は卒業式。高校は別々になるから、今日が自分の気持ちを伝える最後のチャンスだ。 一大決心をしてきたものの、聡美はもう何度も家の前を行ったり来たりしている。聡美にとっては、何時間もの出来事にも思えたが、実際には数分
2024年4月17日 09:48
私の携帯がぶるっと揺れてメールの着信を報せた。画面を開くと、件名に「💗」だけが表示されている。 えっ、懐かしいなあ。 私の心を軽い驚きと喜びと、そして少しばかりの感傷が過る。 圭子はアルバイトで入った娘で、私の職場に配置されてきた。高校を卒業したばかりだった。 圭子は、仕草が可愛い、初々しさが事務服を着たような娘だった。 折角ならアルバイトではなく正規の職に就けばと思うのだが、彼女
2024年4月13日 10:01
「あっ、しまった」 妻が階段を駆け上がってきた。「何? どうしたの?」「ワイシャツを着る前に、ズボンをはいてしまった」「えっ?」 妻は怪訝な顔をする。「いつもはYシャツが先なんだ」「何、それ。馬っ鹿じゃないの。慌ててきて損した」 そんなの、どっちが先でもいいじゃない! 妻は呆れ顔で降りていった。 でも私にすれば、会社員になってから十年一日の如く、ずっとそうしてきた。すでに習慣