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直凪
2023年9月15日 07:50
満月は優しい黄色なのに、月光に照らされた地上は死んだように蒼い。 矛盾している。していない。身勝手な一貫性を期待している僕のせい。 屈折率とか散乱とか、自転だとか公転だとか、物理法則に従って、月は無心にそこにある。意図も持たずに光を浴びて、悲しみもせず闇に埋もれる。 満月の慈愛は僕の中の慈愛の反射。月光の静寂は僕の中の静寂の反響。世界は僕の投影に覆い尽くされて、ありのままを見分けられ
2023年8月4日 14:06
「子供、欲しいの?」 グレーのスウェット姿の彼はベッドに寝転んだまま「いてもいいかなと思って」と答える。視線はスマホの液晶の上を細かく上下し続けている。「どうしてそう思うの?」「んー、なんとなく?」 彼は寝返りを打って、にへらと口元を緩める。「こちらは産みたくないし、今の状況で育てていくのも無理だと思っています。子供が欲しいなら説得してよ。どうして子供が欲しいの?」 彼はス
2023年7月31日 21:03
恋は冷める 憧れは幻滅に変わる 好きは嫌いに反転する では移ってしまった情はどうすれば消し去ることがてきるだろう トマトとピーマンと椎茸が嫌いな君 何時間も目覚ましを鳴らす君 仕方ないなと最後は笑って、君のどうしようもないところも愛おしんだ その時間は僕を構成するブロックの一つになっている 外して残る空洞をどうやって埋めればいい? 君が僕を嫌いになって、お前な
2023年6月14日 17:30
バスタブに満ちるピンク色の海、ゴム栓の裏の奈落。 生温い汚水から這い上がっても、柔らかいようでいて歯を立てるには硬過ぎるゴムの天井が立ちはだかる。 筒に封じ込められた高濃度の闇。もがき疲れて溺れるか、少ない酸素が尽きて窒息するか。 そこに彼あるいは彼女を突き落としたのは僕だ。 空飛ぶ小豆のような塊が目に入り、何も考えず手に持っていたシャワーを向けた。 放出される無数の水滴はそ
2023年6月11日 22:31
あなたを好きになりたかった。 あなたを好きな私でいたかった。 あなたを愛する見返りに、あなたに愛してほしかった。 真冬の川に飛び込めともし言われたら、私は飛び込む覚悟があった。 あなたを喜ばせるためならば、辱めにも耐えられた。 あなたに命じられたなら、 それが望ましいことなのだと、当たり前だと言われたなら、 行間の期待を読み取りさえしたら。 足を引っ張るわがままを
2023年6月10日 10:08
住む人を亡くした家に介錯人が自転車で来て、内臓をトラックに運び出し、緑の衣服を切り倒し、家を剥製にしてしまった。 介錯人たちが去った後、便りを受ける鼻を塞がれ、裸に剥かれている他は、以前と変わらないようにも見えたけれど、その実やっぱり空っぽなのだ。 血も肉もなくしてしまった、骨と皮だけの張りぼての家。何も巡らない、風化を待つだけの物体。 生皮はまだ湿っている。 灰色に腐ったサボテ
2023年5月31日 13:13
死にたいという感情は、「恥ずかしい」と「帰りたい」と「会いたい」の混合物だ。 できなければいけないことができない自分の不甲斐なさ。誰かに取り返しのつかない傷を負わせてしまった後悔。何の役にも立たず迷惑をかけてばかりの申し訳なさ。 臭くて汚い惨めな裏切り者の自分を見られたくない。穴があったら入りたい。永遠の墓穴に。 そしてもう戻って来たくないくらい疲れている。 逃げ道はまだあるかも
2023年5月30日 11:53
このお皿、ヒラメの形だね、なんて他愛ない気付きを口にして、ほんとだ、って何のひねりもない返事をもらって、あれ、ヒラメとカレイってどっちがどっちだっけ、とかどうでもいい話をして。 ヒラメの皿の上から焼き魚を口に運ぶために彼の手は塞がる。テーブルの上の品々が彼の視線を外に向けさせる。 差し出したわたしの言葉が受け取られる。同じものを見ている。彼の意識の窓がわたしのほうを向いて開いている。
2023年5月22日 23:14
密で柔らかな体毛に覆われた臆病な獣の後頭部を眺めながら、川沿いの道を今日も歩く。夏至に向かう朝の太陽で、被毛の白い部分がハレーションを起こす。 この子が自分の最後の犬かもしれない。 そう思った時、わかってしまった。今この瞬間、網膜に映っているこの光景が、いずれ何度となく呼び起こすことになる、幸せな思い出そのものなのだと。あまりの眩さに蒸発してしまいそうなほどの光を放つ、まさにその記憶にな
2023年4月25日 20:07
結婚という契約を交わした男と女は無条件に祝福すべきものとされている。 人を集めて幸せそうな顔をしてみせて、永遠という空疎を誓う。体裁さえ整えておけば、そこは喜びの場なのだという約束事が、不安も憂鬱も塗り込めて覆い隠す。 婚姻関係という型に収まって数年後、喪失をきっかけとした心身の不調に対処するために読み漁った本から得たいくつかの概念は、私にとって禁断の知恵の木の実だった。 どんなとき