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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

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ぼくが僕になるまでの物語です。ありったけの魂を込めましたので、ぜひお読み下さい。
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デリカシーのないぼくが僕になるまで

デリカシーのないぼくが僕になるまで

★少しの間、これでしのいでおいてくれ

 ミユが目を醒ましたようだったので、僕は椅子の背凭れから胸を剥がしキッチンへと向かった。ツマミに手をやり、テフロン製のフライパンと小ぶりの鍋を火にかける。火が付くと、僕は背中越しに、役割を果たし終えた弾道ミサイルのようにソファに身体を横たえているミユに向かって、「よく眠れたかい?」と声をかけた。両雄の調理器具に熱が行き渡るまでには、まだまだ時間がかかりそうだ

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デリカシーのないぼくが僕になるまで

デリカシーのないぼくが僕になるまで

★協定その九:人を連れてきてはいけない。

「前から聞こう聞こうと思ってたけど、何でこんな大量に本を読むことになったんだ?うちの父親と母親なんてこれっぽっちも読みゃしないぜ」
 今でさえ読書の真っ最中だ。暇な時間さえあれば小説、教科書と読書に励んでいる。これほど読みこなしていれば一日少なくとも百個の熟語を新たに習得しているはずだ。毎日が新しい発見。世界は驚きで満ち溢れている。甲野さんは本から目を

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デリカシーのないぼくが僕になるまで

デリカシーのないぼくが僕になるまで

★ギュルルルルル。キュルル。

 父さんの頬は赤い。テーブルには飲み干したビールの缶と、ふたを開けたもう一つの缶。テレビからの音。高い音。チカチカと瞬くカラフルな色。笑い声。
 ぼくはひっそりと席を離れた。ふとももの下に手を差し込む。イスの後ろ足を空中に浮かす。少しづつ後ろへ━━。

「ちょっと待て」父さんはテレビを消す。顔がこっちに向く。赤い。首が傾き斜めに伸びている。「食器はいいからそこに座れ

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デリカシーのないぼくが僕になるまで

デリカシーのないぼくが僕になるまで

★少しの間、これでしのいでおいてくれ

 ミユが目を醒ましたようだったので、僕は椅子の背凭れから胸を剥がしキッチンへと向かった。ツマミに手をやり、テフロン製のフライパンと小ぶりの鍋を火にかける。
 火が付くと、僕は背中越しに、役割を果たし終えた弾道ミサイルのようにソファに身体を横たえているミユに向かって、「よく眠れたかい?」と声をかけた。両雄の調理器具に熱が行き渡るまでには、まだまだ時間がかかりそ

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デリカシーのないぼくが僕になるまで

デリカシーのないぼくが僕になるまで

協定その九:人を連れてきてはいけない。

「前から聞こう聞こうと思ってたけど、何でこんな大量に本を読むことになったんだ?うちの父親と母親なんてこれっぽっちも読みゃしないぜ」今でさえ読書の真っ最中だ。暇な時間さえあれば小説、教科書と読書に励んでいる。これほど読みこなしていれば一日少なくとも百個の熟語を新たに習得しているはずだ。毎日が新しい発見。世界は驚きで満ち溢れている。

 甲野さんは本から目を

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デリカシーのないぼくが僕になるまで

デリカシーのないぼくが僕になるまで

 八時のニュース。テーブルに置いてある料理はサンプル品みたいに生気がない。
「ああ疲れた。今日も長かった。くそっ、まだ水曜かよ」
 父さんは壁にかけられている時計を見やる。
「お疲れのようだから、ご飯の前にお風呂に入ったら」
「いや、先にご飯だ。今日はシャワーだけ浴びる」

 父さんは上着を席の横に下ろし、キッチンに向かっていった。首元のネクタイを緩めながら冷ぞう庫をのぞく。父さんが冷えた発泡酒を

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こんな小説の始まり方があってもいいんじゃないか。

こんな小説の始まり方があってもいいんじゃないか。

 みなさんに今見てもらったのは、ある人から送られてきたビデオテープの解説である。ビデオテープは腰当てにするにはちょうどいい大きさの小包によって僕の住まいへと届けられた。小包にはビデオテープの他に、数十枚の彼特有のユーモアがちりばめられた原稿も入っていた。それ以外の余ったスペースはというと、これら重要な歴史的文化財を保護すべく丸めた新聞紙によって埋め尽くされていた(だから実際のところ、小包の大半の中

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デリカシーの欠片すら持たないぼくが、僕になるまで

デリカシーの欠片すら持たないぼくが、僕になるまで

★協定:家の物は何でも使っていいが、使った後は元の位置に戻す。

「今日は家で食っていってもいいんだよな」
「今、世の子供達の大半は夏休みだ。あんたは知らないだろうけど、どのご家庭でもぼくら小動物へ与える餌で悩んでいるよ。その権利を奪ったからって誰も文句を言いはしないさ」ぼくは四つ足の、バランス養成器具から降りて台所へと向かった。

「何か食べたいものはあるか?」
 ぼくは甲野さんに出会った初めの

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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

「今日の夕食はなんだ」
「カレイの煮つけ。真が作ってくれているわ」
「あとは何がある」
「そうねえ。小松菜のおひたしと納豆ぐらいかしら」
「おいおいたまには身になるものを食わしてくれよ」父さんはぼくの後ろから鍋の中をのぞき込んできた。「せめて濃い味にしてくれよ。薄いと何を食っているのかまるでわかりゃしない」
 ぼくはお客の要望を聞き入れ、砂糖としょうゆを酒の分量をほんの少し多くする。煮汁が黒いのは

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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

★君のために覚えたんだ。

「あなたって、どうしてそんなに一つのことに夢中になれるの」ミユは寝そべっていた身体を起こし、ソファから起き上がった。膝の上にはかけてきた茶色い縁の丸眼鏡。度は入ってなさそうだ。昔から彼女は遠くに強い。
 僕は視線を読んでいた本へと戻し、「人より一つに夢中になっているっていう自覚は、僕にはないな」
「現に今がそうじゃない。わたしが寝ている間にそうやって本を読んでいたわけじ

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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

★協定その七:この家の他のことについては一切聞いてはいけない。

「また旅行?」
 甲野さんはクローゼットからシャツ三着と薄手のセーターを取り出すと、出したそばから次々にベッドの上へと水平に投げつけていた。手から離れたシャツとセーターは、うすっぺらい放物線を描いて真新しいベッドの上、既に下着が置いてある横へと無事着陸。早くも入荷したてのセミダブルのベッドを、甲野さんはここぞとばかりに使い倒している

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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで(幼少期⑦)

デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで(幼少期⑦)

「母さん。机に置いてあったぼくの本、どこにあるか知らない?」
「どこの机?」
「ぼくの部屋に決まってるだろ」
 母さんは読んでいた雑誌から顔を上げた。「知らないわ。お母さん、今日はあなたの部屋に入っていないもの」

 ぼくはもう一度自分の部屋へ戻って探してみることにした。でも探すとしてもあとは机の裏ぐらい。それか、ほこりのたまっている本だなの上か照明の上ぐらいか。とにかく、空中にでもほうり上げでも

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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで(青年期⑥)

デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで(青年期⑥)

★ 笑うことには何の理由もいらないよ。

外は予想以上に暑かった。見えない熱気で冷え切った身体が急速に温められていく。もうちょっと段階的でもいい気がする。根野菜のように真水ぐらいの温度から温めてみてはどうだろうか。人っていう生き物は小松菜やほうれん草よりは、どちらかと言うと人参や蓮根に似ている体型なんだから。

 赤茶色と焦げ茶の入り混じった正面広場を抜け、ミユと僕はエスカレーターに乗った。待って

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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで(少年期⑥)

デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで(少年期⑥)

★協定その六:月に一度はお休み(最低一週間前までには知らせておく)。

 これ以上眠れないのはわかっていた。だけどもう一回だけ目をしっかりとつむってみる。浅く呼吸を繰り返し、寝ている状態を作り出す。草の湿っぽい匂いも、葉が折れるちくちくとした感じももう消えた。目の奥に、真っ暗な暗闇が広がっているだけ。面白いことは何もない。それでも五分ほど同じ姿勢に耐え、それから芝生との友情を絶った。身体を起こし、

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