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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

★君のために覚えたんだ。

「あなたって、どうしてそんなに一つのことに夢中になれるの」ミユは寝そべっていた身体を起こし、ソファから起き上がった。膝の上にはかけてきた茶色い縁の丸眼鏡。度は入ってなさそうだ。昔から彼女は遠くに強い。
 僕は視線を読んでいた本へと戻し、「人より一つに夢中になっているっていう自覚は、僕にはないな」
「現に今がそうじゃない。わたしが寝ている間にそうやって本を読んでいたわけじゃない」
「ねえミユ」僕は一時読書を中断し、彼女の方に視線を向けた。ミユは髪に手を置いて、髪が泡かクリームで出来ているかのように、やわらかい手つきで表面を撫でていた。「これは僕にとってのバラストのようなものなんだ。安定のためのただの重しだ。これを手にしていないと━━」
「またサリンジャーから引用しているの?」彼女は髪を撫でつつ僕の方を見た。手の届くほんの数十センチ先を這う蜘蛛でも見るような目つき。それもブドウぐらいに腹が膨れた特大級のやつだ。目にしたとしても通り過ぎていくことを願ってやり過ごすしかない。「それは誰が言ったの?ホールデン?それともズーイ?」
「こんな気の利いたことを言えるのはズーイ君ぐらいだよ」僕は後退して壁に背を凭せかけた。
 彼女は遠ざかった距離を補う以上に目を細めると、「あなたには面白いのかもしれないけど、それ、全然面白くない。重しかなんだかしれないけど。あなたのように一つのものに夢中になれるのっていいものよね」
「僕が夢中になっているって?」
「ちゃかすのはやめて。質問権はわたしにあって、あなたにはない」
「それはなんとも不公平な関係だな」
 彼女は小さく微笑んだ。ゆっくりと、口角が上がらない程の慎ましさで。しばらくして、「ねえ、なんでもいいから音楽を流して」


 僕はテーブルの上に置いてあったiPodを手に取って、ミユには当たらない場所目がけて放り投げた。狙った通り、イヤホンでがんじがらめに縛られたiPodはソファの背凭れにぶつかりバウンドすると、勢いをなくしてソファの上へと留まった。少ししてから、ミユは最初からそこに置いてあったかのようにさりげなく手をのばし、iPodに絡むイヤホンをくるくると解きはじめた。
「こっちに来て」ミユはソファの足元を叩く。
 僕は立ち上がって、ソファへと近づいた。ミユの前まで行き、叩かれた位置に背がくるよう後ろ向きにソファに寄りかかる。彼女の膝っ小僧よりは目線が上。けれど、臍までとなると分からない。とにかく、彼女の細い脚が二本のスキー板のように横に立てかけてある位置に留まった。後ろを振り向こうとすると、「動かないで」とミユ。それで僕がテディベアの気楽さでソファに凭れかけ待っていると、左の耳の穴にイヤホンが嵌め込まれた。イヤホンからはコールドプレイの曲。サビまでくると、ボーカルのクリスに合わせて彼女は曲を口ずみはじめた。
I hear Jerusalem bells a ringing 
Roman Cavalry choirs are singing
Be my mirror, my sword and shield
My missionaries in a foreign field

For some reason I can't explain
Once you go there was never
Never an honest word
And that was when I ruled the world


 サビが終わると、クリスの掠れたような甘い声を越えて彼女の声が直に届いた。「この曲ってわたしにはまるで関係ないのね。エルサレム。ローマの聖歌隊。何のことかまるでさっぱり。それでも、なぜか心が引かれるのよね」
 彼女は小さくため息をつき、足を横にずらした。疲れたというのでもなさそうだ。『Viva la vida』が終わると、彼女は曲を流すのを止めた。

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