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デリカシーの欠片すら持たない、ぼくが僕になるまで

★協定その七:この家の他のことについては一切聞いてはいけない。

「また旅行?」
 甲野さんはクローゼットからシャツ三着と薄手のセーターを取り出すと、出したそばから次々にベッドの上へと水平に投げつけていた。手から離れたシャツとセーターは、うすっぺらい放物線を描いて真新しいベッドの上、既に下着が置いてある横へと無事着陸。早くも入荷したてのセミダブルのベッドを、甲野さんはここぞとばかりに使い倒している。去年なんか何を下敷きにして寝ていたんだろう。見たところ布団もなさそうだし、ソファもない。毎晩寝袋に包まってでもいたのだろうか。オーガスタに明け暮れたりベンチプレスなんかを買う前に、まずこういう実用的なものを買うべきだ。これじゃ、飲んだくれと一緒だ。ビールが世間映えするものに変わったってだけだ。


「こうやって取材をしに行くのも仕事の一つだぞ」と甲野さん。
「これで今月もう二度目だ」ぼくはベッドの上で飛び跳ね、その座り心地を確かめてみた。入荷したてのベッドは固く、ほどよい反発力でぼくを上へと跳ね上げる。甲野さんの体型にはちょうどいい固さなのかもしれない。あまりにも柔らかいと沈んでいきそうだから。立ち上がり、四十三キロの体重に重力のオプションをつけるとベッドはミシミシと情けない音を辺り一帯に響かせた。ぼくの足元では、シャツとか下着が飛び上がりたさそうに横で待機している。製造元に、買って早々ベッドを送り返す前に、ぼくは椅子に居場所を移した。
「先方からお呼びがかかってな」ベッドから落ちた衣服を腕に抱き、甲野さんは洗面所に向かって行った。扉を開ける音。そして閉まる音。少ししてリビングに帰ってくる。甲野さんが手持ちの品から厳選して持ち帰って来たのは、歯ブラシ、ジェル、乳液、髭剃り、コンタクト、化粧水。これさえあれば、数日間の甲野さんの清潔は担保されると言っていい。


「仕事にしては、嬉しそうだよな」座っていた椅子を前後に揺すって、二本足で立ってみた。これだけで、ただの椅子がバランスを鍛えるのにもってこいの器具に早変わり。手ごろで、新しく買い足す必要もない。だけどこの器具にも弱点はあって、それはあまりにも動ける範囲が少ないこと。揺すりすぎると危険なアトラクションになってしまう。自分の身は自分で守れという格言はこんな時にも当てはまる。
 椅子を馬に見立てているぼくに向かって、甲野さんは自慢の品だというばかりに歯を見せつけて話してくる。本当に楽しみにしているといった感じ。「現地に行くのは、いつでも楽しいものだ。俺みたいに日がな一日家にいる奴は、人と会って話すだけでも嬉しくなるものなんだ。それに今回は気を許せる相手が待っている。飯も旨いものが食えるはずだ」ぼくも口を開いて、甲野さんに歯を見せつけてやった。コーヒーを飲まない分、ぼくの歯の方がよほど白に近い。 


 ベッドの上には衣類。床の上には小型のノートパソコン、ケーブル、洗面道具一式、メモ帳、カメラ、小説、ペン入れ、充電器、等々。荷物は多岐にわたっている。
「こんなのほんとにいるか」ぼくは椅子から立ち上がり、自家製のトマトソースを手に取ってお留守番コーナーの中へ。
「おいおい」甲野さんの半ば強硬ともいえる推薦で、トマトソースは元あったケーブルの横へ。
 トマトソースがいるんなら、もうなんだって必要じゃないか。チーズだって、ベーコンだって。いっそのこと、冷蔵庫一式持っていけばいい。
 ぼくは遠征メンバーに別れを告げて椅子に座った。「で、今回は何日ぐらいで帰ってくる?」
「そうだな」甲野さんは腕を組み、用意した荷物を見下ろして、他に何が足りないのか最終チェックに取りかかりはじめていた。必要であればすぐにでも買ってきそうな気構えだ。毎回そんなに時間がかかるなら、本腰入れてチェックリストを一度作ってしまえばいいのに。見てる分にはわからない何か特別なものがあるのだろうか。現地では調達できないもの、持っていった方が役に立つもの、事前に先方から要求されたもの。「最低三日はかかるだろうな。それからどれだけ伸びるかは取れ高と、相手からの要望で変わってくる」


「まるでプロだね」
「何言ってんだ。俺はプロだぞ」甲野さんは持ち物に納得いったのか組んでいた腕を外し、ベッド上の荷物をボストンバッグ━━小旅行にはうってつけのサイズ。片手で扱える、手ごろなサイズ感━━に積め込むための前準備に取り掛かり始めた。最初に手をつけたのは、人目に晒されることのない下着。手に取ってコンパクトになるよう畳み、種類ごとに積み重ねる。ズボン、無地のTシャツ、綿の靴下も。畳まれたそばから、ぼくはそれを手に取って丸めてしまいたくなる。できそこないの下絵のように取り返しのつかないぐらいくしゃくしゃに。もちろん捨てる時は、取るのに苦労するようゴミ箱の底に追いやることも忘れない。
「そういえばお前が勉強している姿は見たことがないな」甲野さんは白シャツを海から引き揚げた長い海藻のようにひらひらさせながらぼくに聞く。「俺がいない間、勉強でもしてろよ」
「あんたに言われるまでもないね」腕をまわらせて、椅子の背凭れにぼくは胸をぎゅっと押し付けた。手を下にして顎を椅子の背につける。「家ではずっと勉強しているからね。おかげさまでずっとクラスで一番だ」 


 下着をあらかた畳み終わると、次に甲野さんはシャツに取り掛かり始めた。襟がつぶれないよう、上にくるよう配慮している。四角く畳まれたシャツは見た目のバランスがいい。「おまえの母さんはそんなに教育熱心なのか」
「うちの場合は父さんだ。それに熱心なんてもんじゃない。教育の権化だ」
「そりゃいいな」甲野さんは笑う。「お前、弁護士か医者になりたいんだろ。ずいぶん恵まれた環境じゃないか」ぼくの顔を見るなり、甲野さんは頬に浮かべた笑みを引っ込めた。「なんだ。俺が言った言葉につられて、考えを改めたのか」
「あんたの言葉にそんな影響力なんてないよ」
「それならいい。どうぞ夢に向かって突っ走ってくれ」甲野さんは畳み終わった衣類を、次から次へとボストンバックの底へと詰め込んでいった。最初は下着。ボクサーパンツが吸い込まれるようにバッグの底へと詰め込まれていく。餅つき職人の要領で、次から次へと滞ることなく重ねられていく。その手際の良さを、ぼくはぼんやりと見ていた。衣類全般を詰め込み終わったところで、甲野さんは言った。「働くまでは俺だってわからなかった。もしかしたら商社での仕事が気に入ってあのまま働いていたかもしれない。販売網の開拓に人生の活路を見出して、今でも働き続けていたかもしれない。お前の望んでいるものはそう簡単になれるものではしないし、俺とは事情が違うかもしれない。だがやる前から決めてかかるのは迂闊だ」
 ぼくは一定時間ごとに空気を吸わなきゃ生きていけないのを思い出して、息を再開した。何事も、無駄な動作がないとついつい見とれてしまう。こんな、必要からくる荷物入れなんかでも。「ぼくが悩んでいるのは、そんなことじゃない」


 甲野さんはふと顔を上げ、ぼくの方に視線を向けた。まるで荷物がちょうどケースに収まり一息つこうとしかけた時に、横のポケットには収まりきらないサイズの忘れ物があることに、はたと気づいたかのように。「じゃあどういうことなんだ」
「医者や弁護士になりたいのなら、人より勉強しなければならないのはわかる。なるためには将来難しい大学に入らなきゃならないから。でももしぼくがコンビニの店員とか、そういうものにやりがいを見つけたらどうなるんだ。ぼくはもう勉強しなくていいわけ?」
「なるほどな」甲野さんは洗面道具を最後に荷づくりの手を休めた。氷の中に閉じ込められているかのように、ジッパーで開け閉めするタイプのケースに朝夜の必需品は入れられている。胡坐の向きを変え、椅子に座っているぼくの方に甲野さんは身体を向けた。控えの、いつかはしまわなければならない残りの荷物のことは一旦無視することに決めたようだ。「お前は間違いを犯している」と甲野さん。いつもにはない、ずいぶんと厚ぼったい声で話してくる。

「人生を狭く見過ぎている。もしくはお前はわざわざ狭いものに押し込もうとしている。勉強というものはどんな時でも手段にしかすぎないんだ。大学に受かる、なりたい職業につく、というのだって手段の一つにすぎない。一番大切なのはそれで人生が充実するかどうかだ。もしおまえが足し算で作られた世界で満足できるんなら勉強しないでもいい。世界に何億といる色白の男や、何年もかけて作られ、そしてそれ以上の年月の間手厚いサポートを受けて守られてきた建築物の由来についてお前が知る気も知りたい気もないのならそれでもいい。でももしお前が色白の男共と腹を抱えて笑いたい、もしくは太古の昔にあったとされる砂ありきの生活と俺たち現代人の生活を引き比べたいというのなら話は別だ。お前の住んでいる世界以外にも何千種類もの違う世界がこの地球にはあるんだ。とんでもなく巨大な世界がな。それは目で見えることだけではなく、ある現象をどう捉えるかにもよってくる。外人の目から見ると、よっぽどクリアになったりするんだよ。勉強というものはだな、本来お前をもっと自由に身軽にさせてくれるものだ。それを使えばお前はどんな場所にでも出入りできる。好きな時に好きな場所で好きに生活を営むことが出来る」

「でも実際にはさ、数学なんて役に立ったためしがない。それに建築物について知りたいんなら建築物だけについて知りさえすればいいじゃんか」
「それも考えの一つだ。だがもしお前が建築という学問に深く嵌ってしまって、目の前の巨大建築物がどのように設計されているか、どのような意図で回廊の柱一本取り付けることにしたのか知りたくなったらどうする?容易に想像つくことだが足し算ぐらいの計算能力ではにっちもさっちもいかなくなるだろう。足し算で何ができると思う。おそらく床の横線一つ引けないだろう。建築史にしたって数学をわかっているほうがより深い理解になる。深い理解をするからこそ楽しめるんだ。そうだろう、ふうんと物知り顔でうなっているだけでどうなるんだ。それが素晴らしいことは誰でもわかる。素晴らしいことがわかったんなら、どうして素晴らしいか探ってみたくなるのが人ってもんだ。探ってみれば、もっと素晴らしいものに出会えるだろう。学校でやっているのはごく基本的な部類に過ぎない。あれはどの分野であろうと必要とされる最低限の知識だ。あれぐらいのことがわからなければ何をやっているのかさえもあやふやになる。はじめにどの分野に手を出せばいいのかさえもな。興味のある分野を探そうにも、まずもって手札がなければならないだろう。知らないことに興味をもつことは不可能だ。手を出すにもまずその存在を知っていなければ。物はなんでもいいから、それが実際にあるということをどこかから仕入れなければ」


 ぼくは椅子から胸を剥がすと、二本の腕だけで体重を支えた。少しぐらついてバランスが崩れた。後ろにベッドがあればこのまま倒れたかったけれど、そこまで用意周到、万事予定通りといくものでもない。もしこのまま倒れれば、後引くたんこぶと、背中全域に紫色のアザを未来のぼくに託せるだけだ。そんなやっかいごとを引き託すわけにはいかない。ぼくは大きく息を吸いこんでから、また元の位置へと戻った。本来の目的通り、四本足で床に立つ。「これであんたがとんでもなく勉強熱心な理由もわかったよ。旅行に行くときはいつも物理化学の本を持っていくもんな」
 甲野さんはちらっと床の上に置かれた小説を見やった。目の幅が、みすぼらしいものを見たように一瞬狭くなる。「学校で教わることは最低限の道具なんだ。紙やペンなんだよ。それらがなくては何もできない。それを手に入れてからどこへなりとも好きに行けばいい」甲野さんは振り向き返って、荷造りにまた精を出し始めた。ぼくは甲野さんが全ての荷物をボストンバッグへ入れ込む作業をじっと見ていた。前準備のおかげか、滞りなく進んでいく。
「でも」と甲野さんがボストンバッグのチャックに手をかけた時、ぼくは言った。「もし勉強に乗り気でなくなったらどうなる?あんたのいう足し算の世界とやらでも別にいいってなったらさ」
「話は簡単だ」甲野さんはチャックを閉めると、よく食べ切ったと褒めるように、ボストンバッグの横っ腹をパンパンと手で叩いた。「そいつはほんのごく小さな範囲で暮らすしかなくなる。ごくわずかな土地と木々が残された、うら寂しい小島でな」甲野さんは立ち上がり両腕挙げて上半身を引き伸ばすと、台所へと向かっていった。

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