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母からもらった「だいじょうぶ」
9月22日 出勤前。
スマホがピロンと鳴ってメールの到着を告げた。noteでフォローしている岸田奈美さんの新作がupされたとのお知らせメール。
いつもは直ぐに読むとは限らない。ただ、この時は朝の支度も一段落してちょうど椅子に腰を掛けたところだった。だから、何の気なしにそのまま記事を開いた。
出勤前に読んだらアカンやつだった。
両目からは涙がぼろぼろ零れ落ち、鼻はぐじゅぐじゅ。
私の中の「
父と母の昔話 結婚編
大学病院に勤務する医師と看護師、しかも同じ病棟勤務となると、ふたりの「お付き合い」が周囲の知れるところとなるのに大した時間は要さなかった。
父は、他人の目などどこ吹く風のメンタルごんぶと人間なので、しれっと普通に勤務していたようだが、母は違った。病棟の独身医師をゲットした同僚に対して妬み嫉みを隠さない看護師も、中にはいた。
また、もともと母よしこさんはマジメが服を着て歩いているようなひと
父の昔話 インターン編
父と母が「お付き合い」を始めて間もないそのころ、時は1968年。
世に言う「東大紛争」が勃発した。
全国の医学部でインターン制度廃止や医局員の待遇改善を求める運動が台頭し、その中心となったのが東大医学部だった。父曰く、当時の東大総長、東大医学部長、東大病院長が揃いも揃って極め付けの交渉下手であったが故に泥試合の様相を呈し、ひいては安田講堂事件に至る学生運動に進展してしまった、とのこと。
「第一次
父の昔話 終戦後から高校時代
太平洋戦争が終わった。祖父は家族の待つ信州へ戻り、村で医院を再開した。程なくして政府が農地改革の大鉈を振るい、それなりの大地主だった父の実家も所有地の大半を失った。水呑百姓から豪腕でのし上がった曽祖母の落胆は凄まじいものだったそうだが、息子が村医者としてそれなりの地位を築いていたのが功を奏し、没落というほどの憂き目を見ることはなかった。
その頃父は村にひとつしかない中学に進学した。頭抜けて勉強の
ばばとまごの最後の夏休み
母が亡くなったのは2年前の2月。
通夜と告別式には、当時小6と小4だった我が家の息子たちとともに、神戸から駆けつけた弟家族の小4姪と6歳甥も参列しました。4人の孫たちはそれぞれに涙をぽろぽろこぼしながら、ばあばのことを見送っていました。
特に我が家の長男は、赤ん坊の頃から散々世話になって来たおばあちゃんだったから、悲しみもひとしおだったと思います。
無くなる前の夏、母の病気はなかなか治癒への目
田舎の天才くん~父の昔話:戦時中編~
祖父達男が軍医として従軍したのが何年だったのか、正確な時期は知らない。しかし、戦時中二度も召集されたのは、地元の村に3人いた医師の中で祖父だけだったらしい。その理由が年齢や健康面でのものなのか、過去に曽祖母スエが犯した罪に対する罰のようなものだったのか、定かでは無い。いずれにせよ祖父は、幼い時分の父の成長を見守る機会の大半を奪われて過ごした。
以前にも書いたように、跡取り息子の長男である父を
私の知らない曾祖母と祖父と祖母
私の曾祖母スエは明治14年生まれ。82歳まで長生きして、昭和38年に大往生したという。私が生まれる10年前のことだから、当然会ったことはない。そして、これまで曾祖母にまつわる話を聞く機会もまったく無かった。
スエは、只者ではなかったという。水呑百姓の与兵衛と夫婦になったのは、当時のことだからまだ年若い時分だったに違いない。本来「水呑百姓」とは自分の土地を持たず、土地持ちの田畑で働く百姓だが、