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母からもらった「だいじょうぶ」

9月22日 出勤前。
スマホがピロンと鳴ってメールの到着を告げた。noteでフォローしている岸田奈美さんの新作がupされたとのお知らせメール。
いつもは直ぐに読むとは限らない。ただ、この時は朝の支度も一段落してちょうど椅子に腰を掛けたところだった。だから、何の気なしにそのまま記事を開いた。

 出勤前に読んだらアカンやつだった。
 両目からは涙がぼろぼろ零れ落ち、鼻はぐじゅぐじゅ。

 私の中の「だいじょうぶ」の記憶が、記事を読んで頭の引き出しからまろび出たからだ。

 3年前、私の母は約1年間の闘病生活を経て亡くなった。白血病だった。
 既に何度目かの峠を越え、何とか迎えた2020年の年明けだったが、その後体調は悪化の途を辿っていた。
 入院先は私の自宅からもほど近い大学病院だったが、母の身の回りの世話は80を超えた父が甲斐甲斐しく務めており、協力を申し出ても
「これは儂の仕事。自分の職場と家の面倒を見るのがお前の仕事だから。」
と断られ、頼まれたときだけ出動する程度だった。

 そうは言っても、母の命がそう長くないことは、娘の目からも明らかだったから、私も会えるときには母に会いたかった。特に、孫である私の息子たちの写真や動画をスマホで見せると、痛みや熱でつらそうな時でも、本当に嬉しそうな顔をした。

 2月中旬の週末、面会に行ったのは、小学校6年生の長男の小学校行事を見に行った後のことだった。行事は、展覧会。図画工作や家庭科の授業で制作した作品や、展覧会のために生徒たちが共同制作した大作が展示されている。いかにも手先の器用そうな子、絵心のありそうな子の、見ごたえのある作品に出会えるのも楽しいし、低学年、中学年、高学年と成長するにしたがって明らかに作品に変化が出てくるのを感じるのも微笑ましい。

 そして何より親としては、我が子の作品を目にするのが、醍醐味のひとつだ。

 長男は、手先が器用なほうではないし、絵を描くことにも興味を示したことはない。『芸術的センス』というものを「あー、まあ、そういうのイイっす。」と丁重に遠慮して生まれてきた風情すらある。
 一方で「上手に描いてやろう」「褒められるように綺麗に作ろう」という企みもまた全くないことが、その作風に独特の味わいをもたらしており、母的には毎回ツボるのである。

 親にとっては非常に趣深い長男の作品をあれやこれやとスマホで撮影し、私は母の病室を訪れた。母はうつらうつらと眠っていた。酸素を吸入するチューブを鼻に着けた顔は、いっそう頬がこけて痩せていた。腕も脚も細くなり、また一歩母が私たちのいる世界から遠ざかって行こうとしていることを実感したが、触れた手からは確かな温かさが伝わってきた。

 しばらくして母の目がうっすらと開き、私の来訪に気づいて三日月形に微笑んで「来てたのね」とかすれた声で言った。声も、前回の面会時よりも細くなっていた。

 今日は長男の学校の展覧会だったことを伝え、ベッド上の母にスマホで撮った長男の作品を供覧した。安定の脱力系作品群。母にとってもお馴染みの世界観。母はにこにこと笑顔で眺めている。

「なんかねえ、本当に相変わらずのマイペースで。面白いっちゃ面白いんだけど、このままで先行き大丈夫なのかと心配になるよ、たまにね。」

 本人が居ないのをいいことに、私はおどけた口調でそう言った。冗談めかして言ったものの、本気も半分混じっていた。

 私が生まれ育ち、今現在も暮らしているこの街は、極めて特殊だ。日本一偏差値の高い国立大学が徒歩圏内で、周囲にはその関係者や卒業生が多数居住する。自転車で30分かからず到着可能な医学部附属病院は5つを数え、医者も数多く住んでいる。昭和から続く日本の偏差値重視教育は、その弊害も多数問題視されてはいるが、ここの住民にはそれに対して高度に適応してきた大人が多い。しかもそれが、昭和から令和まで続いている。遺伝子的にも『ナチュラルボーン“お勉強が得意な子”』が多く、かつ『お勉強を頑張ること』に価値を見出す空気が当たり前のように満ち満ちている環境。

 私自身は、そこに適応する子供であった。少なくとも通っていた公立小学校の授業内容を理解するのに苦労した覚えは無い。親から勉強するよう尻を叩かれずとも、やればやっただけ成績という形で成果の見える『お勉強』は取り組み甲斐があった。いわゆる『できる子』『手のかからない子』だったと思う。(そんな感じのまま成長し、中学受験や大学受験をクリアした先で思いっきり壁にぶつかったのだが、それはまた別の話)。

 だから、自分が親になり、我が子が自分とは違うタイプであることを悟ったとき、気を付けようと思った。自分が歩いてきた道が自分にとって『よきもの』であったとしても、それを子供に押し付けるのは禁物だ、と感じた。親の志向が子供の育ちに影響を与えることは、避けられないところではあるが、少なくともそれが有害なものとならぬようにしたかった。

 そうは言っても常に心配は付きまとう。心配するのも親の仕事のうちと心得てはいるが、これでいいのかと思い迷いながら地図の無い道を歩く気分に似ている。病床の母の前でこぼれた言葉には、そんな私の本音がにじんでいたのだと思う。

 そのとき、母が言った。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ。」

 細く、かすれているが、笑みの混じる声だった。聞いた途端、何とも言えない気持ちとともに不意に涙が溢れそうになり、私は慌てた。慌てて、ごまかすつもりで再びおどけて言った。

「大丈夫って、何が大丈夫なんだか。」

 母がもう一度言った。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ。」

 今度は駄目だった。ボロボロっと涙が出て、でもなんだかそれを隠さなくてもいい気がしたから、泣き顔のまま母の顔を見た。

「だいじょうぶ、かな?そうだね、きっと、だいじょうぶ、だね。」

 うんうん、と肯く母の目が笑っていた。

 母は、その1週間後、亡くなった。

どんな道をえらんでも、
きみはだいじょうぶ。
だいじょうぶじゃなくなっても、
きみなら絶対だいじょうぶ。

全肯定の「だいじょうぶ」。

言う側は最も無力で、
言われる側は最も無敵になれる言葉が、
こんの「だいじょうぶ」じゃないのか。

何年経っても、離れても。

その「だいじょうぶ」の響き、根拠はないが愛がある祈りは、人生という砂漠をどこまでも歩いてゆく自信をくれる。

【内書評】こんとあき「無力で絶対のだいじょうぶ」より引用

 岸田さんの記事を読み、このくだりを目にしたとき、3年前に感じた自分の気持ちが言葉になって現れた気がした。

 母がどんな想いであの言葉を口にしたのか、本当のところはわからない。意識もそこまで明瞭では無かったから、たまたま、そう言っただけなのかもしれない。

 しかし、私の中であの「だいじょうぶ」は、心に灯をともしてくれる、勇気の種のような言葉となっている。

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