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しごと: 医師。かぞく:夫、次男、ねこ♂。長男は地域みらい留学で高校から遠方他県に国内…

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しごと: 医師。かぞく:夫、次男、ねこ♂。長男は地域みらい留学で高校から遠方他県に国内留学中。近所に住む80代の父は、2019年2月母に先立たれて元気に一人暮らししていたが、2022年4月に急逝。父や母、家族の思い出話を不定期に綴るnote。

最近の記事

母が入院した日

9年前の今日、2週間の入院を経て実家の母が退院したことを、日記代わりに使っているFacebookが教えてくれました。 思い返せば、あの頃から母は体調を崩しがちになりました。何らかの予兆だったのかもしれません。 しかし当時の母は、30年以上前に私の弟を出産した時を最後に、大きな病気をしたことのないひとでした。それが突然、しかも最低でも二週間の入院と言い渡されました。 その時、母も私も、真っ先に心配したのが父のことでした。 父は当時77歳でしたが、片道一時間以上かけての遠

    • 母からもらった「だいじょうぶ」

      9月22日 出勤前。 スマホがピロンと鳴ってメールの到着を告げた。noteでフォローしている岸田奈美さんの新作がupされたとのお知らせメール。 いつもは直ぐに読むとは限らない。ただ、この時は朝の支度も一段落してちょうど椅子に腰を掛けたところだった。だから、何の気なしにそのまま記事を開いた。  出勤前に読んだらアカンやつだった。  両目からは涙がぼろぼろ零れ落ち、鼻はぐじゅぐじゅ。  私の中の「だいじょうぶ」の記憶が、記事を読んで頭の引き出しからまろび出たからだ。  3年

      • 父と母の昔話 結婚編

         大学病院に勤務する医師と看護師、しかも同じ病棟勤務となると、ふたりの「お付き合い」が周囲の知れるところとなるのに大した時間は要さなかった。  父は、他人の目などどこ吹く風のメンタルごんぶと人間なので、しれっと普通に勤務していたようだが、母は違った。病棟の独身医師をゲットした同僚に対して妬み嫉みを隠さない看護師も、中にはいた。  また、もともと母よしこさんはマジメが服を着て歩いているようなひとだった。そういうひとが「この仕事はわたしの天職!」と信じて(しかも優秀な成績で)

        • 父の昔話 フォーリンラブ編

           昭和36年、医学部を卒業した父は、1年間のインターン生活を経たのち国家試験に合格。東京大学医学部第三内科に入局した。  当時の第三内科は教授が専門とする神経内科のほか、後に教授となるチーフが率いる血液内科グループもあり、父もその一員となった。  信州で医院を営んでいた父親(わたしの祖父)が心筋梗塞で早逝するという事態はあったものの、豪腕だった曽祖母仕込みの嫁である母親(わたしの祖母)は、農業もバリバリ営んでおり、父は実家を気にせず東京で医師としての修行に邁進することができ

        母が入院した日

          父の昔話 インターン編

          父と母が「お付き合い」を始めて間もないそのころ、時は1968年。 世に言う「東大紛争」が勃発した。 全国の医学部でインターン制度廃止や医局員の待遇改善を求める運動が台頭し、その中心となったのが東大医学部だった。父曰く、当時の東大総長、東大医学部長、東大病院長が揃いも揃って極め付けの交渉下手であったが故に泥試合の様相を呈し、ひいては安田講堂事件に至る学生運動に進展してしまった、とのこと。 「第一次安保のときも同じような動きはあったんだけどね。ときの総長や学部長がもう少しうまく

          父の昔話 インターン編

          父の昔話 上京編

          18の春、父は故郷を離れ上京した。東京大学に合格した松本深志高校の同期は大半が駒場寮に入寮したが、協調性に欠ける父は教養学部付近の下宿に住んだ。金のかかる息子である。 6歳年上の2番目の姉(私にとっては叔母)が、当時薬剤師を目指して東京の専門学校に在籍しており、彼女が父の身の回りの世話をしてくれたそうだ。家族を挙げてのサポート体制。 父は理科二類の学生として大学生活をスタートした。当時、東大医学部を志す理系の教養学部生は、教養学部から各専門学部に進む際の進学振り分け(通称

          父の昔話 上京編

          母の携帯

          父に頼まれて、auショップに付き添った。 『亡き母の3G携帯が使えなくなるというお知らせがauから届いたから、機種変更をしにauショップへ行ったが、故人の契約は更新できないため、まずは名義変更が必要。その後で機種変更手続きという流れになると言われた。しかし、小一時間ひたすら多量の説明を聞いてサインをするという流れを、1人で我慢強く終えるのは無理であると話したら、話を聞ける親族の同伴をお願いしますとのこと。申し訳ないが付き合って貰いたい。』 という依頼が父からあったからだ。

          母の携帯

          15年前のあの日

           早朝始まった陣痛。夫に付き添われ、タクシーを呼んで産婦人科に入院した。慌てて入院したもののそこは初産婦、お産はなかなか進まない。隣の陣痛室では唸り声と怒鳴り声が交錯しており、付き添いのパートナーの方が怒られている様子だったが、その声も気づけば聞こえなくなった。隣人のご無事の出産を祈りつつ、羨ましいような気分でもあった。  我が夫は午前中一旦帰宅して休憩してもらい、昼過ぎに戦線復帰。その後も遅々とした経過を辿り、分娩室に移動したのは夕方のことだった。  分娩室に入ってから

          15年前のあの日

          父の昔話 終戦後から高校時代

          太平洋戦争が終わった。祖父は家族の待つ信州へ戻り、村で医院を再開した。程なくして政府が農地改革の大鉈を振るい、それなりの大地主だった父の実家も所有地の大半を失った。水呑百姓から豪腕でのし上がった曽祖母の落胆は凄まじいものだったそうだが、息子が村医者としてそれなりの地位を築いていたのが功を奏し、没落というほどの憂き目を見ることはなかった。 その頃父は村にひとつしかない中学に進学した。頭抜けて勉強のできる生徒であることはすぐに判明した。 盛り上がったのは祖父である。もともと勉強

          父の昔話 終戦後から高校時代

          ばばとまごの最後の夏休み

          母が亡くなったのは2年前の2月。 通夜と告別式には、当時小6と小4だった我が家の息子たちとともに、神戸から駆けつけた弟家族の小4姪と6歳甥も参列しました。4人の孫たちはそれぞれに涙をぽろぽろこぼしながら、ばあばのことを見送っていました。 特に我が家の長男は、赤ん坊の頃から散々世話になって来たおばあちゃんだったから、悲しみもひとしおだったと思います。 無くなる前の夏、母の病気はなかなか治癒への目処が立たない状態が続いていたものの、自宅療養が可能な程度には落ち着いていました。

          ばばとまごの最後の夏休み

          田舎の天才くん~父の昔話:戦時中編~

           祖父達男が軍医として従軍したのが何年だったのか、正確な時期は知らない。しかし、戦時中二度も召集されたのは、地元の村に3人いた医師の中で祖父だけだったらしい。その理由が年齢や健康面でのものなのか、過去に曽祖母スエが犯した罪に対する罰のようなものだったのか、定かでは無い。いずれにせよ祖父は、幼い時分の父の成長を見守る機会の大半を奪われて過ごした。   以前にも書いたように、跡取り息子の長男である父を、この上もなく可愛がり過保護に育てたのがスエだった。そして、スエと折り合いの悪か

          田舎の天才くん~父の昔話:戦時中編~

          父とジョンの話

           父は子供の頃の私や弟が「犬か猫を飼いたい」と言っても「狭い都会では可哀想」と許してくれない人だった。信濃の広々とした実家で猫も犬も放し飼いにしていた父にとって、さまざまな制約のある都会での飼育は受容し難かったのだろう。  父には、かつて愛犬がいた。シェパードのジョン。警察犬としても有名で、知的で忠誠心に富む賢い犬種。ジョンもまた、忠誠心に篤かったという。ただし父限定で。  とにかく警戒心が強く、不審者と認定したら許す気ゼロ。郵便屋も新聞屋もジョンに見つかったが最後、敷地

          父とジョンの話

          私の知らない曾祖母と祖父と祖母

           私の曾祖母スエは明治14年生まれ。82歳まで長生きして、昭和38年に大往生したという。私が生まれる10年前のことだから、当然会ったことはない。そして、これまで曾祖母にまつわる話を聞く機会もまったく無かった。  スエは、只者ではなかったという。水呑百姓の与兵衛と夫婦になったのは、当時のことだからまだ年若い時分だったに違いない。本来「水呑百姓」とは自分の土地を持たず、土地持ちの田畑で働く百姓だが、やり手だったスエはあの手この手で所有地を増やしていった。夫の与兵衛はそんな妻に疲

          私の知らない曾祖母と祖父と祖母

          きっかけは本だった

           そもそも何故にnoteを始めようと思ったかというと、父から聞くファミリーヒストリーが面白過ぎたからだ。きっかけは一冊の本だった。  主人公は宮沢賢治の父、政次郎。花巻で父の代から続く質屋を営み、地元では篤志家として名高い人物で、賢治はその長男。明治の男として強く威厳のある家長であろうとする一方で、隠居の父、喜助から「お前は、父でありすぎる」と嗜められるほどに賢治への愛情が抑えきれない政次郎。そんな父を尊敬し感謝しながらも、むしろその愛の重さに押し潰され人生を彷徨い続ける賢

          きっかけは本だった

          いきもの愛づる父②

          あれは私が小学校3年生くらいの時。 学校から帰ると、ふろ場に大きなタライが置いてあり、その中で泳いでいた。 鯉が。 困り顔の母から、マンションのお隣さんの釣果のお裾分けなのだと聞いた。生きた鯉のお裾分け。子供の目にも斬新だった。私と二つ年下の弟は、鯉だねえ、そうだねえ、とふろ場のタライを眺めて楽しんだ。 が、すぐにかわいそうになった。何せ鯉は瀕死の体で狭いタライをたゆたっている。せめて風呂桶に移しては、と母に提案したが、勘弁してくれ、と断られた。 それにしてもこの鯉

          いきもの愛づる父②

          いきもの愛づる父①

          84歳の父は母と二人で暮らしていたマンションの一室で一人暮らしをしている。そこのベランダは割合広く、一角には鉢植えが並んでいる。私が子供のころに住んでいたマンションでも、ベランダには鉢植えが所狭しと置かれていたから、植物を育てるのは好きなのだと思う。植物を育てるのが上手な人は『みどりの指を持っている』と聞いたことがある。父はまさにそのタイプだ。その才能は娘の私には引き継がれておらず、大学生で一人暮らしをしているときに実家から分けてもらったベルフラワーが死の瀬戸際に瀕し、帰省の

          いきもの愛づる父①