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父の昔話 フォーリンラブ編

 昭和36年、医学部を卒業した父は、1年間のインターン生活を経たのち国家試験に合格。東京大学医学部第三内科に入局した。
 当時の第三内科は教授が専門とする神経内科のほか、後に教授となるチーフが率いる血液内科グループもあり、父もその一員となった。

 信州で医院を営んでいた父親(わたしの祖父)が心筋梗塞で早逝するという事態はあったものの、豪腕だった曽祖母仕込みの嫁である母親(わたしの祖母)は、農業もバリバリ営んでおり、父は実家を気にせず東京で医師としての修行に邁進することができた。気丈な母を持つ息子は得である。
 そうは言っても祖母にとって父は、大事なひとり息子であり跡取りである。東京で身を立てた息子がいつの日か実家に戻り、亡き夫の医院を再開することを夢見る気持ちがあったとしても不思議はない。女手ひとつで農家を切り盛りするのは容易くはない。一家のあるじの長い留守を守るべく、ひと一倍気丈であろうとしたのかもしれない。

 親の心子知らずで、田舎嫌いの父は東京での生活を満喫していた。遊びにはてんで興味がない父だが、望んだ本はすぐ手に入り、他教室の勉強会にも好きなだけ参加し、呼ばれなくても病棟で長時間過ごして担当患者の信頼を得る、そんな毎日が性に合っていた。

 若手医師としてバリバリ働いていたある年の春、血液内科病棟に看護学校を卒業したての新米看護師が数名着任した。その中のひとりが母だった。

 母は、静岡県由比町の出身。静岡市の女子校を卒業後、看護師を志して東大病院附属の看護学校に進学した。当時の女性としてはだいぶ背丈の高いの167cm、看護学校は首席で卒業。その年新任の看護師の中でも目立った存在だったらしい。

「そりゃもうたいそう可愛かった。」
とは父の回想。

「よしこさんに言い寄った医者はけっこういたようだぞ。」
 それってどうよ!乱れた職場だなおい!!と内心つっこむ娘であるが、父がそのワンオブ言い寄った医者だったから私が居るわけで、いちがいに避難めいたコメントをするのも憚られた。

 たしかに、若い頃の看護師姿の母は可愛らしい。すらっとした長身に白いナース服がよく似合う。

 一方の父、たぶん身長166cmくらい。明らかに母より小柄である。眉は太くて唇は厚く、どう贔屓目に見てもイケメンに分類される容姿ではない。
 しかしながら、在りし日の母がこう語ったことを私は覚えている。

「お父さんは、格好いいお医者さんだった。」
と。

「他の先生は、病棟でやることが終わるとそそくさと医局に戻ってしまって、看護婦が指示確認の電話をするとそれは面倒くさそうに応対するの。でも、お父さんは誰よりも長く病棟にいてくれて。患者さんからも看護婦からも人気があったのよ。」

 ルックスはさておき仕事面での好感度でポイントの高かった父は、やがて母を食事に誘うことに成功。おめでとう。そこで連れて行った店が、上野の洋食の名店『ぽん多』。同店の味で父は母の胃袋を掴んだ。

「こんなに美味しいものを、肩肘張らずに楽しめるお店があるんだ、って驚いた。A先生と行った銀座の高級フランス料理は、緊張して味がわからなかったし、B先生に連れて行ってもらったラーメン屋は美味しくなかったし。」

他の医者とも飯食っとったんかーーーい!!

 ちなみに、私が母から話を聞いた時点に於いて、このA先生もB先生も、日本内科界の大御所であり、とても口外できるネタでは無かった。さすが東大。

 そんなこんなで10歳の歳の差を越えて母のハートを射止めた父。「お付き合い」を始めて間もないそのころ、時は1968年。世に言う「東大紛争」が勃発した。

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