見出し画像

父と母の昔話 結婚編

 大学病院に勤務する医師と看護師、しかも同じ病棟勤務となると、ふたりの「お付き合い」が周囲の知れるところとなるのに大した時間は要さなかった。

 父は、他人の目などどこ吹く風のメンタルごんぶと人間なので、しれっと普通に勤務していたようだが、母は違った。病棟の独身医師をゲットした同僚に対して妬み嫉みを隠さない看護師も、中にはいた。

 また、もともと母よしこさんはマジメが服を着て歩いているようなひとだった。そういうひとが「この仕事はわたしの天職!」と信じて(しかも優秀な成績で)看護師になったものだから、手を抜くという言葉は彼女の辞書に無い。患者さんのために、と頑張りすぎるよしこさんは、患者さんに寄り添い過ぎて、いつもルーティワークが終わらない。看護記録も時間内に書けず、常に居残り。こういうタイプは、大学病院の看護師内では疎んじられた。

 段々メンタルが削がれてゆき、遂には体調を崩し、彼女の看護師人生は2年で幕を下ろした。学生をやり直すことも考え大学受験にもチャレンジしたが、心身ともに疲れた状態での準備は不十分で、桜は咲かなかった。

 生まれてこのかた、ずっと「優等生」で過ごしてきた母だった。地元由比の小学校でも、静岡市内の女学校でも、看護学校でも、常に成績は一番だった。そんな自分が天職と信じて就いた仕事を2年で退職し、受験にも失敗した。「もう本当にどうしたらいいかわからない」そんな状態の母に、父は結婚を申し込んだ。

 私が初めて母からこの話を聞いたのは、高校生の頃だった。
「お母さんが完全に弱っているところにお父さんがプロポーズしたの?それちょっとズルくない?」

 そんな風に嘯く私に、まったくこの娘は、と苦笑しながらも
「そうねえ。でも、お母さんにとっては救世主のように見えたのよ。素敵な手紙もくれて。あれは一生の宝物なの。」

 と、母は笑った。その手紙を読んだことはないが、あれだけの文章を書ける父が、おそらく思いの丈を全て綴ったであろう手紙だ。名文でない筈がない。父、やるじゃん。

 結婚の意志を固めたふたり。しかし、そこから先の道のりは険しかった。
長野の田舎で実家を守っていた父の母、私の祖母が、この話を聞いて怒り狂った。大事な跡取り息子が看護師と結婚するなど、到底容認できることではない。

 亡くなった祖父は村で医院を営んでいた。看護師は、医者の妻である祖母にとっては「従業員」に過ぎない。また、間の悪いことに隣村の医院では、院長が看護師と良い仲になり、妻を追い出して家を乗っ取るというワイドショー好きしそうな事件もあり、「看護師」に対して祖母が抱くイメージは最悪だった。

父は言う。

「大事な一人息子の嫁には、『良いとこのお嬢さん』が相応しい、とでも思っていたんだろうね。」

 祖母は、情の強いひとだった。烈女として地元でも悪名高い曽祖母は、祖母をさんざんイビり倒したのち80超で大往生。村医者の夫は農業には全くの門外漢なので、家業である農家は祖母が担うこととなった。しかし、祖父母の代となって間もなく、息子が天下の東大の医者になり浮かれた祖父が心筋梗塞で急逝。医院は閉鎖することとなり、1人で農家の切り盛りをすることになった。強くならねば、生き延びられなかったのかもしれない。

 祖母は父に言い放った。看護師なんかと結婚するなら、首括って死んでやる、と。

 完全に恐喝だと分かっていても、庭には枝振りの良い木が山ほど生えており、屋敷には立派な梁がいくらでもある実家である。父も捨て置くわけには行かず、説得を試みるため長野へと向かった。

 しかし、その時東京で父を待つ母のもとには、長野からの刺客が放たれていた。父の姉である。

 父には2人の姉がおり、上の姉は地元企業の重役に嫁入りしていた。下の姉は、父の上京生活を数年支えたひとで、実家に戻ってからは薬剤師として勤めながら、祖母と暮らしていた。
 この上の姉が、弟を誑かすけしからん看護師に物申すべく、下の姉を従えて東京に乗り込んできた。

 当時、行き場所のない母は、父の下宿の空き部屋に、大家さんの計らいで住まわせてもらっていた。父が祖母の説得のため不在にしていたとき、その下宿に、姉たちが訪ねてきたのだ。

 上の姉は、下宿の畳に母と向かい合って正座すると、持参した大荷物を目の前にドンと置いた。その中身は、カセットテープレコーダーだった。そして、録音ボタンを押し込んでから、話し出した。

「弟はあなたと夫婦になるつもりのようだけれど、実家で喜んでいる者は誰もいない。そんな風にして無理に結婚しても、幸せになれる訳がない。悪いことは言わない、諦めなさい。」

 滔々と語る上の姉を前に、項垂れる母。2人の間でおろおろする気の優しい下の姉。母の言質を取るべく、静かに回るテープレコーダー。

「お義姉さんが、かちり、と押したテープレコーダーのボタンの音は、今でも忘れられない。」

と、かつて母は私に言った。

「こんなことまでされて、もう無理なのかな、と思った。でも、どうしても『はい』とは言えなかった。」

 望んだ返事を得ること叶わず、姉妹は帰っていった。実家での祖母との話し合いが不調に終わり東京に戻った父は、自分の不在中の話を聞いて激怒した。
 いつまた姉の襲来があるとも知れず、母の身を案じた父は、駒込で学生寮を営んでいた知人夫婦の家に、母を匿ってもらった。寮のご夫婦は母を不憫に思い、親のように優しくもてなしてくれたという。

 父は、実家と縁を切る覚悟で母との結婚を決意し、職場にもその旨を伝えた。事情が事情なので、本人たちは式も挙げるつもりは無かったが、第三内科の医局の同僚、出入りしていた大学の講座の知人、母と仲の良かった看護師仲間といった有志が、神保町の学士会館で小さな結婚式と披露宴を企画してくれた。

 式の話は、双方の実家にも伝えたが、父の母は当然のように拒絶した。
 その話を聞いた母の父(私の母方祖父)は「そんな鬼婆のいる家に嫁に行く必要など無い」と怒り心頭で、これまた式への出席を断った。

 親族の中で父の下の姉と、母の母は出席してくれたと聞いている。東京の友人知人と僅かな親族を前に、2人は結婚を誓った。

 様々な壁を乗り越えて、それでも2人で歩くことを諦めずにいてくれた父と母。若い2人を助けてくれた東京の人たち。反対する声のほうが大きい中、味方に回ってくれた少数派の親族。皆のおかげで、私は今この世にある。

 皆さん、その節はありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?