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父の昔話 終戦後から高校時代

太平洋戦争が終わった。祖父は家族の待つ信州へ戻り、村で医院を再開した。程なくして政府が農地改革の大鉈を振るい、それなりの大地主だった父の実家も所有地の大半を失った。水呑百姓から豪腕でのし上がった曽祖母の落胆は凄まじいものだったそうだが、息子が村医者としてそれなりの地位を築いていたのが功を奏し、没落というほどの憂き目を見ることはなかった。

その頃父は村にひとつしかない中学に進学した。頭抜けて勉強のできる生徒であることはすぐに判明した。
盛り上がったのは祖父である。もともと勉強が好きで、大学にも進学したかったものの、残念ながら試験に落ちて村の補助教員をしていた人だ。息子に我が夢を託すべく、協力を惜しまなかった。ドのつく田舎では手に入りにくい本も、あの手この手で入手してくれたのだという。

また、父には他にも助けてくれる存在がいた。祖父が補助教員として勤務していた学校で校長を勤めていた、母方の伯父である。曽祖母の田んぼ万引き事件で職を解かれた恨みも無かったわけではなかろうに、甥っ子の個人教授を引き受けた。お陰で父は比較的苦手だった理数系も、足を引っ張らない程度には出来るようになった。

高校受験を控えた長野県内模試で、父は一位を飾った。上位を占める生徒の大半は、県内随一の都市、松本の優秀な坊ちゃん方だったので、見たことのない村立中学の生徒の名前は明らかに浮いていた。

父は、試験を突破し県内一の進学校、松本深志高校に入学した。市内のエリートは入学前からの顔見知り同士も多く、その中に飛び込んだ田舎育ちの野良神童は、生来の変人気質も相まって、ここでも異質な存在だった。しかし、友達たくさんできるかな精神はもとより皆無な父にとってはさほど気に病むことでもなく、むしろ故郷に比べれば遥かに文化的な場所で1日の大半を過ごせる幸せのほうが大きかったという。

また、変わった生徒に目をかけてくれる変わった教師はいるもので、それがドイツ語担当の名物教師『金熊先生』だった。外国語は英語を選択していた父に、ある日突然スカウトの声。「君、なぜドイツ語を取らんのだ。2年からはドイツ語にしなさい。」戸惑いながらも選択を変更したところ、遅れて始めたにも関わらず良好な成績を収めたという。英語では平凡な成績だったようなので、語学にも相性というものがあるのかもしれない。

当時、地方の名門公立高校の使命のひとつが「優秀な卒業生を東大に送り込んで人脈を作り、故郷に中央からの恩恵を注ぎ込むパイプ役となる人材を育てること」であった。なので、いかにして東大に合格できるような生徒を増やすかは、教師陣にとって重要な課題でもあった。この時の松本深志高校における作戦のひとつが『ドイツ語選択推し』。入試の外国語を、英語よりは受験者数の少ないドイツ語にすることで高得点を狙うものだ。なんてマニアック。しかし、金熊先生という名伯楽の采配もあり、この作戦は成功を収めるにいたった。結局父の代は松本深志高校の東大合格者数記録を塗り替え、20名超の生徒が東大に進学した。

父も、その中の1人だった。

愛犬ジョン(本名リヒト・フォン・デ・ハイデンクラフト)との別れを経て、父の東京での生活が始まった。

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