田舎の天才くん~父の昔話:戦時中編~

 祖父達男が軍医として従軍したのが何年だったのか、正確な時期は知らない。しかし、戦時中二度も召集されたのは、地元の村に3人いた医師の中で祖父だけだったらしい。その理由が年齢や健康面でのものなのか、過去に曽祖母スエが犯した罪に対する罰のようなものだったのか、定かでは無い。いずれにせよ祖父は、幼い時分の父の成長を見守る機会の大半を奪われて過ごした。
  以前にも書いたように、跡取り息子の長男である父を、この上もなく可愛がり過保護に育てたのがスエだった。そして、スエと折り合いの悪かった祖母ナツは、それを面白く思っていなかった。わんぱくとは程遠く、家にいることを好み、近所の子供と群れるよりも虫や生き物を愛する息子を不甲斐なく感じていたようだ、と父は言う。

 しかし、スエが甘やかそうが甘やかすまいが、父の一風変わった性質は天与のものだったようである。幼い頃から文字を識ることに執着を示し、3歳の頃には仮名文字のみならず漢字の読み書きができるようになっていた。

 信州のドがつく田舎の村には歩いて行ける範囲に本屋などなく、ナツは女性雑誌を定期購読していたのであるが、毎月届く『婦人倶楽部』を母であるナツ以上に熟読したのがわたしの父だった。文字に飢えていたにしても婦人雑誌。渋すぎる3歳児。

 5歳の時、むっつ歳上の2番目の姉の小学校について行ったことがあり、そこの図書室で居並ぶ上級生たちに向かって未就学児童の父が本の読み聞かせを始め、司書の先生がぶったまげたというエピソードもある。

 そんな感じの父だったので、小学校に上がった時も、鉄板で浮いていた。しかも当時は昭和17年。ザ・戦時中である。田舎の学校でも軍事教練的な時間は多く持たれており、体を動かすのが不得手な父は、それをことごとくサボった。校医である村医者かつ地主の息子ということでそれなりのお目溢しは頂いていたようだが、下手な教師に当たっていたら相当イビられていた可能性はある。だが、父は教師運に恵まれた。

 小学校低学年の担任は上條キミエ先生という女性で、この運動はてんでダメだがやたらと物知りで口ばかり達者な本の虫を随分と可愛がった。つまらなそうにしていると、授業よりも進んだ内容の課題を渡してくれたり、難しい本を勧めてくれたりしたらしい。教えるのも上手だったという。父はきっとこの先生のことが大好きだったのだろう。キミエ先生の思い出を語る父の目は細くなっていた。

 小学校高学年の担任は佐藤先生という男性だった。「この教師は普通だった」とにべもない父。「でも、相当可愛くなかったわしのような生徒のことも、邪険にすることはなかったから、まともな大人だったと思う。」…ずいぶん上からなコメントである。佐藤先生が授業中、とある資料の中の『蒐集』と言う文字を「きしゅう」と読み上げたのを聞いた父(当時小4)「あれは『しゅうしゅう』だよなあ」と隣の子にひそひそ話で笑う、そんないけすかないガキんちょだった。ちなみに、話を聞いた47歳の私はこの漢字を読めなかった。蛙の子は蛙ならず。残念。
 態度は褒められたものではなかったものの、父はこの佐藤先生のこともけして悪くは言わなかったので、嫌いではなかったのだと思う。

 そして、キミエ先生と佐藤先生はのちにご結婚されて夫婦となった。お二人で住んだ松本の下宿では時々「あの、面白い天才くんはどうしているかねえ」と話していたそうな。

 まあ、いわゆるひとつの『神童』ってやつだったんだね、と私が言うと、父は「まあ、そんなもんだ」と答えた。父の辞書に【謙遜】の文字はない。

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