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父の昔話 上京編

18の春、父は故郷を離れ上京した。東京大学に合格した松本深志高校の同期は大半が駒場寮に入寮したが、協調性に欠ける父は教養学部付近の下宿に住んだ。金のかかる息子である。

6歳年上の2番目の姉(私にとっては叔母)が、当時薬剤師を目指して東京の専門学校に在籍しており、彼女が父の身の回りの世話をしてくれたそうだ。家族を挙げてのサポート体制。

父は理科二類の学生として大学生活をスタートした。当時、東大医学部を志す理系の教養学部生は、教養学部から各専門学部に進む際の進学振り分け(通称『進振り』)までに好成績を残さねばならなかった(理科三類は昭和37年創設)。しかもライバルは日本各地から集まった生え抜きの秀才たちときたら、さしもの野良神童あがりの父とて余裕かまして居られるわけがない。キャンパスライフをエンジョイする余裕はナッシング。父からこの時期の思い出は特に語られ無かった。

3年時、父は医学部に進学した。住まいも東大本郷キャンパスからほど近い向丘の賄い付き下宿に移し、これ以降今に至る父の文京区住まいが始まった。

「入るは難く、出るは易し」な日本の大学。出なくても単位はなんとかなる(と学生が認定した)講義はとことん出席率が低いのが定番だった。
そんな中、常に全ての講義に出る生徒は学年に2人だけ。そのうち1人が父だった。

全出席したのは、やっぱり勉強になるから?と尋ねたところ「いや、ただの天邪鬼」という回答だった。そうは言っても、純粋に勉強するのももちろん好きだったのだろう。学生時代から色々な講座の研究室に顔を出しては勉強会に参加し、顔見知りになることで更に別の勉強会に誘われることを繰り返して色々な教室を渡り歩いていたという。

また、当時の本郷や神保町界隈は、大学のお膝元として本屋の楽園であり、貴重な舶来の医学書も容易に手に入った。

金さえあれば。

そう、医学書は高かった。
今も高いが、時は昭和30年代。現在の比ではない。一介の学生が気軽にホイホイ買える代物ではなかった。

しかし、父には強い味方がいた。信州の実家で村医者をしていた父の父(私の祖父)である。祖父は、父から本代を無心されれば可及的速やかに送金した。「たいそう金のかかる困った息子で」と周りにはボヤきつつも、自慢の息子の援助を惜しむことはなかった。

祖父は、結婚してから大阪の私立の医専に入学し、苦学ののち卒業して医者になったひとだった。その医専では、京大の若い医者が講師をしていたが、こいつが二言目には「お前らは『コンマ以下』だ。ろくな医者にはならない。」と学生たちを蔑んで憚らない輩であったという。我が子に語るくらいだから、よほど悔しかったのだろう。

そんな風にコンマ以下扱いされた自分の息子が、天下の東大医学部に入った。遠い日の雪辱を果たす想いだったのかもしれない。
父が東京で立派な医者になることが、祖父の生き甲斐そのものだった。

父は医学部を卒業し、第3内科に入局。インターンとなった。内科といえば花形である。故郷の祖父は喜んだ。タバコをバカスカ吸い、酒をがぶがぶ飲んだ。喜びすぎてちょっとタガが外れた感じだった、と父は振り返る。

父がインターン1年目の秋、祖父は胸の痛みを訴えた。話を聞いて狭心症を疑った父は、禁煙禁酒をそれとなく促したが、医者の言うことを一番聞かないのが医者の家族である。
祖父も父の助言は完全スルーで、酒飲みヘビースモーカー生活を改めなかった。

その年の冬、祖父は心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人となった。

残念だったね、という私に父はこう返した。

「そうだね。でも、ある意味一番幸せな時に死んだかもしれない。その後の修羅場を見ずに済んだから。」

父の実家にとっての修羅場。
それが、父と母との結婚だった。

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