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翻訳者の日々

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翻訳の仕事のかたわら思ったこと、勝手気ままな日記
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枇杷の葉で布を染める ある染織家のこと(子育てのことも少し)

枇杷の葉で布を染める ある染織家のこと(子育てのことも少し)

枇杷の葉で絹布を染めたことがある。

先日ふと思い立ってその布を見たくなり、よそいきの服をしまったチェストの最上段の抽斗(ひきだし)を開けてみた。
色をなんと表現すればいいのだろう。ピンクを数滴落とした輝くベージュ。ごく淡い朱色と金色を抱えた肌色。しっくりくる言葉がなかなか見あたらない。温かくて、深みがあって、けれど初夏の果実のみずみずしさ、みたいなものもあって。

ずいぶん前から草木染めの色に惹

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ヨガのあと、女友だちと

ヨガのあと、女友だちと

正座になった私たちは頭上にまっすぐ伸ばした両手をゆっくり下ろしてくる。
肘が胸のあたりにきたところで両手を前に差し出して、腕で円を描くようにしながら良い「気」を胸元に引き寄せる。抱きかかえる。
最後に合掌。

「ありがとうございました」
先生のひと言が静かに響き、生徒たちも同じ言葉を返すと、一時間半のヨガ教室が終わる。
体と心がゆるんだ直後はみな放心したようになり、ほとんど言葉もかわさずヨガマット

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キノコの生態に過去の自分を思い出す 読書の体感

キノコの生態に過去の自分を思い出す 読書の体感

先日、私はあるひとのnoteを読み、ほとんど忘れかけていた感覚を思い出しました。
読書のときにおぼえる「体感」というものを。

そのひとは『植物の私生活』という翻訳書を読み、キノコの生態にぐっときたといいます。
キノコの生態に?
そうです。彼女はキノコの生態にほろほろと涙まで流したというのです。

これだけではきっと要領を得ないと思うので補足すると、要するにその『植物の私生活』の叙述が擬人化を用い

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あるnoteへ、求められてもいないのに書いた返事–––なぜnoteを書くのだろう

あるnoteへ、求められてもいないのに書いた返事–––なぜnoteを書くのだろう

目が覚めたとたん、「ああ今日はちょっとだめかも·······」と思う朝が私にはあります。
たいていの日は、お天気にかかわらず、夜明け頃に目が覚めるともうそのあとはどう頑張っても眠れない質(たち)なので、さっさと服に着替えて朝のルーティンに入ります。
が、何か月かに一度、今日は勘弁してほしい、今日はダメかもと目覚めたとたんに感じる朝があります。部屋の空気にゆるく圧されている感じの、そこはかとなく重た

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夏が溶けてゆく

夏が溶けてゆく

8月に入ってから暑さで脳が溶けている。
ほんとうに溶けているのかどうか見たことがないので知らないが、体感的には溶けている。溶けて血管に沁みだして全身に回ってしまっているから、たぶんいま私の頭の中はただの水みたいなのしか入っていないだろう。
水といってもクリアではない、少しにごった感じの水。
澄んだ水が欲しい、体の内も外も全身が透明な水を欲している。

そんな気がしてくるほどの暑さだ。
年々それがひ

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一瞬の驚き ものをつくるということ

一瞬の驚き ものをつくるということ

新宿区の舟町というところに、かつて小さな画学校があった。

アートの世界に強くあこがれていた私は、二十代の二年間、週に三日ほどそこの夜間クラスに通った。私なんかが通うことができたのは、選抜試験がなくて授業料も安かったからだ。

生徒募集がはじまるというその日、私は早起きして豪徳寺から電車に乗った。都営新宿線の曙橋で降りたあと、どんな街並みをどのくらい歩いたのかは思い出せない。憶えているのは真っ白な

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7月4日朝、私はあなたの不在を確認する

7月4日朝、私はあなたの不在を確認する

ゆうべ、アメリカに二十年以上暮らした女とイギリスに二十年以上暮らした女がしゃべっていた。

なぜ日本を出たかって?
あたしはほんとに散々な目に遭ったから。いいことなにもなかったから、このままここにいてもダメだと思ってイギリスに行ったんです。
あたしはね、もうそのころ自殺したいと思ってたのよ。日本にいたら自殺してたと思う。だからアメリカに行った。

ひとりは生きのびるために、
もうひとりは死なないた

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6月28日の私

6月28日の私

雨音で目ざめた夜明け前、右の二の腕が冷え切っているのを感じて窓を少し開けていたことを思い出した。ゆうべは蒸し暑かったのだ。隣の部屋で寝ている夫の動く音がする。廊下の窓を閉めている。寒さに敏感なひとだ。夫は夜中にキーボードを弾きたいし、私は夜中に本を読みたくなることがあるから、やすむのは別の部屋だ。仲が悪いわけではない。

小糠雨でもなく、けたたましい豪雨でもない。しとしとと、最近にはめずらしい梅雨

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「生きのびる」はBLMの送るメッセージ ストーリーに耳を傾ける

「生きのびる」はBLMの送るメッセージ ストーリーに耳を傾ける

アメリカでは肌が黒いというだけで犯罪者扱いされる、アフリカ系アメリカ人は自国の中で疎外されている、と書いた黒人ジャーナリストの記事を読んだ。

それによると、黒人に対する差別はヨーロッパよりもアメリカのほうがはるかにひどいという。ロンドンで黒人が警官に撃たれて暴動が起きたとき、たまたま街を歩いていたこの記事の筆者は、逮捕されることも、ましてや命の危険を感じることもなかったけれど、これがアメリカなら

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言葉に淫する

言葉に淫する

「如雨露」という言葉を初めて知った。

「じょうろ」が何かは知っている。こういう漢字をあてることを知らなかったのだ。というか、漢字、あったんだ。私はずっと、じょうろは「ジョウロ」と書くものと勝手に思い込んでいた。ジョウロで注ぐ水は雨露の如し。美しい。草花に水を遣るときは雨露のごとくやさしく。日本人の美意識はほんとうにこまやかで、自然と密接につながっている。

日本語には美しい漢字で表記される言葉が

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本を読むということ、孤独ということ

本を読むということ、孤独ということ

「本を読む暇があるなら、もっとほかにやることがあると思う」とA子は言った。なんの気なしにそう言っただけなのか、私が本をよく読むのを知ってのうえでそう言ったのかはわからない。が、私はそのとき、近しい人に目の前でそう言われたことに驚いて二の句が継げなかった。A子の隣に座っていたB男も、たぶんあまり深い考えはなく、「そうだよなあ、たしかに。時間がもったいないよね」と相槌を打った。

A子は写真を精力的に

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