6月28日の私
雨音で目ざめた夜明け前、右の二の腕が冷え切っているのを感じて窓を少し開けていたことを思い出した。ゆうべは蒸し暑かったのだ。隣の部屋で寝ている夫の動く音がする。廊下の窓を閉めている。寒さに敏感なひとだ。夫は夜中にキーボードを弾きたいし、私は夜中に本を読みたくなることがあるから、やすむのは別の部屋だ。仲が悪いわけではない。
小糠雨でもなく、けたたましい豪雨でもない。しとしとと、最近にはめずらしい梅雨らしい雨だ。梅雨なのにかつての梅雨らしい雨が降らなくなったのは気候変動のせいで、それは二酸化炭素が排出されすぎているからで、それは豊かな国の私たちが電気を猛烈に使いたがり、プラスチックを大量に使いたがり、排気ガスを猛烈に出したがるからだと先日読んだ環境の本に書いてあった。あの本の企画書を出した版元からの返答はまだない。また却下だろうか。次はどこへ持ち込もう、とゆうべ考えていたのだった。
それよりも。
すでに明るくなった部屋で時計を見る。コンビニに新聞を買いに行かなくては。購読していない日刊紙の書評を確認したい。
なにかとくべつな儀式の日でもあるかのように服を選ぶ。といっても、たかだか五分ほど先のコンビニだから選ぶのはTシャツだ。もっているTシャツの中ではいちばん高価な醒めるようなブルー。これを着るからといって今朝を特別にしたいというわけではない。ある一日が特別だったとしても、翌日からはまた延々といつもの現実が続いてゆくこと私はもうよく知っている。
雨が降る、週末の、早朝のコンビニはまだ半分眠っている。お客は私とあとひとり。店員はビニールで隔離されたレジ奥のスペースで朝の作業に追われている。ある全国紙を一部手に取り、ビニールを通る声で店員を呼ぶ。全国紙が一部一五〇円だということをいまさらのように知る。
ディアM、あなたの本が少しずつ日本の人たちに届いています。
K様、好意的な書評です。とても嬉しく……
原著者と編集者にそれぞれメールを送る。さっぱりとした鹿児島の新茶をひとくち飲むと、朝食の用意を忘れていたのを思い出すが、そんなことはどうでもいい。
まともに取り合ってもらえるようになるまでに何年かかったろう。
「いいものを見つけなさい、時間をかけて」
本当にいいものがあんなにあるのに、みんな見向きもしなくなった。そこらへんにごろごろ転がって残ってるのに、いいものが。それを拾いなさい、と翻訳の師匠が電話口で言った。あせって迎合しなくていい。それはほかの人にまかせて。
あたしなんて食い逃げしたようなものよ。
翻訳物がたくさん読まれるようになってきた時代にデビューして、訳しに訳して、ほんとに忙しくて。いまからは想像もつかないような時代だった。いい本がたくさんあって、版権をあちこちで取り合って。それがいまはどう?
古き良き海外小説の時代。師匠の回顧する前世紀の翻訳界。
でも、もう、どんなに素敵な本でも日に二時間くらいしか読めないの。根気が続かなくて。
あたし、いくつになったと思う?
ヴォネガット、ブローティガン、カーヴァー、ボールドウィン。
そんな作家がこの世にいることを教えてくれたのは佐藤さんだった。
大学二年の専攻科目。アメリカ帰りという佐藤さんはまだ若く、ひげを生やし、いつでもノーネクタイだった。ふわふわした足取りで、友だちの部屋を訪ねるように教室にふらりと入ってきて、現代アメリカ文学を教えた。大学の教師というより、ジャズ喫茶で文学の話に興じている職業不詳の男のようだった。あのひとさ、ハーレムに住んでたとかって聞いた? 同級生が冗談だか本当だかわからないことを言った。もちろん佐藤さんを敬愛しての言葉だ。
変わった先生だった。風貌も、「〜なんだよね」というしゃべりかたも、選ぶ教材も、そのとき教わっていたどの教師ともちがっていた。だから学生に受けた。
大学の授業で読んだ英米小説でいまもはっきり憶えているのはボールドウィンのSonny’s Blues だけだ。シェークスピアもフォークナーもバーナード・ショーもただ通りすぎていっただけだった。
「対峙してるでしょ」
Sonny’s Blues を佐藤さんはそう評した。
阿呆な大学生だった私は対峙することの意味がよくわからなかった。しかし、それは初めて最後まで読み通した海外文学だった。
そんなボールドウィンとBlack Lives Matter が頭の中で堂々めぐりをしている。夕食の献立をそれとなく考えている。昨夜読んだ鮮烈な文章がどうしても忘れられないでいる。くっきりした色彩をもつ言葉があふれるように流れ出てくるさまを見てしまうと、自分の言葉のなまぬるさにうなだれる。が、ないものは出てこない。
疾走するようなあの言葉はいったい何なのだろう。あのひりつくような文章は。
媚びないけれども不遜ではない。自分を信じているようで不安をはらんだ危うさがある。けれど決して崩れずに最後までもちこたえる文章の芯の太さ。
売れようなどと姑息なことを考えていない。自分の感度を研ぎ澄まし言葉と対峙する。
そう、対峙。あれが対峙だ。
対峙の意味について数十年後に腑に落ちた私は、明日しなくてはならないことを考える。月曜からの一週間ですることを。
これをいつまで続けるのだろう。
いったいいつまで続けられるのだろう。
続いてゆけるのだろうか。
何の保証もないことをじゅうぶん承知のうえで、私は明日読む本のことを考えながら夕食の野菜を刻みにゆく。
こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。