あるnoteへ、求められてもいないのに書いた返事–––なぜnoteを書くのだろう
目が覚めたとたん、「ああ今日はちょっとだめかも·······」と思う朝が私にはあります。
たいていの日は、お天気にかかわらず、夜明け頃に目が覚めるともうそのあとはどう頑張っても眠れない質(たち)なので、さっさと服に着替えて朝のルーティンに入ります。
が、何か月かに一度、今日は勘弁してほしい、今日はダメかもと目覚めたとたんに感じる朝があります。部屋の空気にゆるく圧されている感じの、そこはかとなく重たい気分。外がどんなに晴れていようと掛け布団をはねのけられない朝があります。
理由はわかりません。
最近何か嫌なことがあったわけでもないのに、どういうわけか頭と体が動くのを拒んでいるときもあれば、気乗りしないものごとが待ち構えているのがもうはっきりしていて、それを考えただけで気が重くなっている朝もあります。
たいていは、仕事がとぎれた宙ぶらりんな時期にそれはやってきます。
それでもなんとか着替えだけはして、頭と体が嫌がるのをなだめつつ、ひとまず体だけを機械的に動かしてみる。
いつもやっているごく単純な、体がすっかり憶えてしまっている作業を始めると、そのあとの一日とどうにか和解できてゆくような感じになってくる。
私はそんなふうにして、沈んだ朝を“だましだまし”乗り越えています。半世紀生きてきた人間の生活の知恵みたいなものです。
朝のルーティンその1は薬罐にお湯を沸かすこと。
まず起きぬけに日本茶を、お湯の温度に結構気を遣って淹れています。
新茶が出たあと初秋までは鹿児島か静岡の緑茶を、手に触れる水道水を冷たく感じるのではなく温かく感じるようになったら焙じ茶を。
久しぶりにちょっと元気が足りないと感じた今朝も私はそんなふうにして乗り切りました。
*
なんでこんなことを書いているのか。
たぶん、あなたがとても疲れているように思えたからかもしれません。だから、いまひとつ浮かない今朝の私の様子を伝えたくなっただけです。
なぜ公開された場所に文章を書くのかというあなたの問いは、たぶんあなたひとりのものではないと思います。
自己顕示欲でもないし、みんなに褒めてほしいわけでもない。自分の抱える思いをただ綴るというだけなら、パソコンやノート(文字どおり紙のね)にひっそり記せば欲求は満たされます。そうしてひっそり書きためた文章が私には少しだけあります。それらは他者には不可侵の私だけの領域と思っていたので、自分のパソコンのフォルダーにしまったままだったのですが、外に出してみようかなといつの頃からか思うようになりました、特にこれといったわけもなく。
いや、何かわけはあるのかも。
動機がなくては公開などしないはずだもの、とあなたのnoteを読んだあとにしばらく考えました。なんだろう、この感じ。
で、もしかしてこういうことじゃないかと思い当たりました。
交換日記。あるいは文通。
「交換日記」をする中高生なんてたぶんもう絶滅危惧種じゃないかと思います。いわんや文通をや。「文通」という言葉じたいがすでに死語に分類されていそう。
中高生のころ、私は友だち数人とノート(もちろん紙の)を回しながら好き勝手なこと書きなぐっていました。
大好きな洋楽や洋画や漫画のこと、先生の変な似顔絵、好きな男子のこと。
あのノートです、なんとなくあれに近いような気がします。
教室では話しきれなかったことのつづき。
夜、自分の部屋にこもったあとに頭の中で大きく膨らんだ想像。
話し言葉ではうまく伝えられないけど、文字やイラストなら伝えられそうなこと。
話し言葉にするのがためらわれるような悩み。
こんなことをいま思ってるんだけど、どうかな? という問いかけです。
楽しかったなあ、十代の交換日記。
不思議なことに交換日記に家族の話題が書かれたことはありませんでした。みんなごく普通の家庭の子で、家族のことを隠す必要なんかなかったとは思うけれど、不思議と日記には書かれていなかった。
きっと自分だけの世界を築き始めていた年頃だったのでしょう。
でも歳をとるにつれて思いを綴る余裕は時間的にも心理的にもなくなり、交換日記はもはや霧の中に消えかかった遠い遠い過去の記憶。
スマートフォンという便利な道具が出現してからは友だちに手紙を書くこともなくなり、だれかを明確に思い浮かべながら時間をかけて何かを書くことがめっきり減りました。
noteと交換日記のノートでは、読んでくれるひとの数がまったく違うし、読み手の顔が見えているかいないかという違いもありますが、自分の頭の中のあれこれを他者に見せるという点は共通しています。
他者が読むことを前提に書きますから内面を100%吐露したものにはならず、多少の脚色や見せかけは入るでしょう。が、使う言葉や写真、何についてどんな文体で語るかによって、そのひとの声や姿や日々の暮らしがおのずと目の前に浮かびあがってくる。
その意味ではnoteは、名前と住所しかわかっていない相手と手紙をかわす文通に似ていなくもありません。
むこうにいる見えないだれか。見えないけれどうっすらと像を結びかけているひと。
noteはそういうひとたちへの問いかけかなという気がしています。孤独を紛らわすというのとはまた少し違うというか。
そしてこれは何も私からの一方的な問いかけではない。フォロワー39人なら39人なりの反応がちゃんと返ってきます。
私は書く内容によって文体がわりと変化するので、捉えどころのない人間という印象を与えていそうですが、どの文章も私という人間のある一面を表しています。
そんな一貫性のない文章には、スキを下さるひともその都度違っていて面白い。そしてやっぱり嬉しい。
ああこのひとは私の理屈っぽい部分を理解してくれてるのかなとか、私のセンチメンタルな部分に共感してくれるのかなとか、ちょっと意地悪な部分を受け容れてくれるひとなんだなというふうに私なりに解釈しています。
そういうことを重ねてゆくうち、あることに気づきます。
あれ、このひと、もしかして私のネイチャーに近いひとかも、と。
自然を意味するnatureという英単語は人の”本質”を指す言葉でもあります。
性格というよりも、もっと根源的な、その人の質感、色、手触りみたいなもの。そういう意味で私は使います。
ネイチャーが近いとかなんとか、言われたほうにしてみれば勝手になんなのよって迷惑な話でしょうが、そこはそれ、noteの中だけのこと。べつに家に押しかけたり電話をかけまっくたりLINE送りまくったりして無理やり友だちになろうなんて野暮なことはしません。
画面の向こうとこちらで、文章を通じて対話するというだけで。
なんでnote書いてるんだろう。
と、ふと考えることになった秋の週末。
初めて「ですます」調で書いてしまった。
こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。