記事一覧
カフカの日記を読む日記 7(2024年07月06日から07月13日)
2024/07/06 彼らは何かを学ぼうと思って列車を見にきたのではなく、日々の業務の息抜きのつもりで列車を見にきたのだろう。したがって、程度の差こそあれ、彼らは列車の通過を楽しみにしていたはずである。
それなのに、その列車には怖い上司が乗っている。なんてことだ。つらい。
2024/07/08 さらに「通過するたび」と書かれているから、その上司はつねに列車に乗っていることになる。
次は乗って
カフカの日記を読む日記 6(2024年6月28日から7月5日)
2024/06/28 そもそも、列車が通過するたびに見物人たちが立ちすくむとはどういった状況なのだろう。見物人たちは何を見にきているのか。列車か、それともちがう何かか。
2024/06/29 列車だとして、どうして見にきたそれを前にして立ちすくむのだろうか。
列車なるものがあるらしいとどこかで聞いたが、じっさいにそれを見たことはなく、いざ目の当たりにして、「はっや!」と感じて立ちすくむ。そうい
カフカの日記を読む日記 5(2024年6月21日から6月26日)
2024/06/21 しかし、カフカの日記の冒頭の文章に「私」はいない。さらに、いちおう1910年に書かれたことはわかるが、そこに日付はない。
果たしてこれは、ほんとうに日記なのだろうか。
2024/06/22 私たちは『カフカの日記』と題された本を読んでいるので、その文章を日記として読むことはできる。
日記として。つまり、ある日カフカはその出来事を体験したのだろうと読むことができる。
カフカの日記を読む日記 4(2024年6月12日から6月20日まで)
2024/06/12 現にそういう研究は無数に存在するし、どれに焦点を絞るにせよ、カフカ好きとしてはどのアプローチも詳しく検討したいところだ。しかし、それらを差し置き、この私自身の日記のなかで私が強調したいことは、ただ一点である。
2024/06/16から6/19「カフカ的なもの」があるとすれば(いやいや、そんな大上段に構える必要なんてなくて、小説であれ何であれ、本なんてみんな好きなように読んだ
カフカの日記を読む日記 3(2024年6月8日から6月11日まで)
2024/06/08 しかしどうしたものか。ほんとうに「おれ」でいいのだろうか。だんだん自信がなくなってきた。その点、ドイツ語は「ich」と書くだけでいいから迷わずに済みそうだ。原文を参照すれば、カフカが日記にichと書いていたことはすぐにわかる。
2024/06/09 カフカのichを日本語にするとしたら「ぼく」だろうか「私」だろうか、それとも「おれ」だろうか。あるいは「うち」や「わし」の可能
カフカの日記を読む日記 2(2024年5月31日から6月7日まで)
2024/05/31 しかしいきなり困った。一人称が難しい。カフカの日記に合わせるなら「ぼく」がいいような気がするけれど、いざ使ってみると「ぼくぅ?ぷぷー」という感覚がつきまとってくる。どうしたものか。
2024/06/01 ひとまず一人称は「おれ」でいこうと思う。しかし、実を言えば一人称「おれ」に対しても、「おれぇ?ぷぷー」という違和感がある。どうしたものか。どうしようもない。よほど気になるよ
こどもの日の短い午後
こどもの日にゲームを買ってもらってほくほくな甥っ子だったが、シュリンク包装を破れずに困っていた。
となるとおれは、「ほんとうは秘密にしておきたかったけど、ちょっと久しぶりに使ってみるか」と口を挟まざるを得ない。さっそく指先に気のような何かを集め始める。最初こそ甥っ子も「何を言ってるんだこのひとは?」と言わんばかりの冷静な態度で応じていたが、おれがなかなか集中をやめないでいると、「え?ほんとに?
安部公房『密会』を読んで――聞いてほしくないものは聞いて、聞いてほしいものは聞かない
1. 問題の所在
二人の人間が秘密裏に会うこと。いくぶん大雑把なことは承知で、「密会」をそのように定義しよう。
するとその言葉の要件の一つは、会っていることが誰かに知られてはならないこと、となるだろう。つまり「秘密」である。しかし秘密には、会う二人のほかにそれを知ろうとする者が必要である。ゆえに二人は会っていることを隠そうとして、それが秘密になる。知ろうとするひとがいなければ、それは秘密