遠ざかる背中に先まわりすることの難しさ

 その階段をいまでもときおり夢に見る。そのとき、私はいつも階段のいちばん上から飛び降りる。その階段は十三段だったので、縁起が悪いという理由からいちばん下の段より下のところには板が敷かれていた。それで十四段ということらしい。私は生まれてから高校を卒業するまでその家に住んでいた。

 その階段をいまでもときおり夢に見る。そのとき、私はいつも階段のいちばん上から飛び降りる。その階段の両側は壁だった。手すりはなく、どこか詰まったような感じがしていた。上るときも下りるときも壁に手を添えて進む。二階の廊下には窓がなかった。だからその階段はつねに暗く、使うときは昼でも電気をつける必要があった。

 その階段をいまでもときおり夢に見る。そのとき、私はいつも階段のいちばん上から飛び降りる。そこに自分の意志はなかった。階段に引き寄せられるようにして歩みを進め、「せーの」でなんのためらいもなく飛び降りる。ほんとうに「せーの」と口に出しているわけではない。飛び降りる前に膝を曲げるのだが、その仕草が「せーの」の呼吸に近い。

 その階段をいまでもときおり夢に見る。そのとき、私はいつも階段のいちばん上から飛び降りる。いちばん下に着地することもあれば、落ちている途中で目が覚めることもある。あの浮遊感と落ちていく速さ。あるいは遅さ。落ちていくにしては遅いような気がした。しかし、いちばん下に着いてみるとそれなりの速さだと思った。あくまで夢の話でほんとうに飛んだわけではないので、実のところその速さはわからない。
 父はその階段のかなり上のほうからじっさいに飛んだことがある。だから父に聞けばわかるかもしれない。落ちていく速度は速いのか遅いのか。

 父は顔のいい男だったけれど、愚かで小心者だった。私はそんな父と十八年も一緒に暮らしていたことになる。しかし、父とともに暮らした家を出てからは、その数年後に伯母から一報をもらうまでいっさい音沙汰はなかった。
 履く機会はあまりなかったにもかかわらず、父は靴をたくさん集めていた。小学校高学年のころには父と同じ足のサイズになっていたので、私は父から何足か靴をもらった。私は成長が早かったのである。けれどもらった靴のなかには、あまりにも長いあいだ履かれずに置いてあったため、ポリウレタン材の本底が劣化してしまっているものもあった。

 中学一年のころだっただろうか。もしかすると二年だったかもしれない。その年の運動会が明後日に迫っていた。
「あのさ、速く走れる靴ってあったりしないかな?」
 私たちは晩ご飯を食べていた。父の大量のコレクションのなかには速く走れる靴もあるのではないか。私はそう考えたのである。とてもいい考えだ。
「ああ」
 父の答えはそれだけだった。おそらく速く走れる靴はあるのだろう。私はけっして足が遅いわけではなかったが、運動会ということもあり、少しでも速く走りたかったのだ。
 靴箱を持った父が私の部屋に現れたのは、晩ご飯を食べて終えてしばらくしてからのことだった。
「この靴なら速く走れるだろう」
 こうして私はたいへん軽いランニングシューズをもらった。手に持ってみたところ、すごく速く走れそうな気がした。本番にいきなりその靴を履いていってみんなをびっくりさせることも考えたが(なにしろとつぜん速く走り始めるのだからみんな驚くにちがいない)、その一方で、いくら軽いとはいえすぐ速く走れるようになるとは思えずにいた。
 結局、私は運動会前日の予行練習にその靴を履いていった。まずはその靴を馴染ませる必要があると考えたのだ。運動会前日の練習は、開会式のリハーサルを一通り行うというもので走る練習はしない。それでも当日にいきなり履いていくよりはいいと判断したのである。結果的に私の判断は賢明だったと言えるだろう。もしかすると、これまで生きてきたなかでもっとも賢明な判断だったかもしれない。

 運動会は九月くらいに行われていたのだろうか。どうだっただろう。あまり暑かった記憶はないから十月くらいだったかもしれない。私は列に並んで、少し高いところに置かれたマイクの前で明日の注意事項などを話す先生の声を聞いていた。本番ではないので、マイクの前に立っているのは校長先生ではない。私とはあまり関わりのない先生である。
 そのときだ。いや、正確にいつかはわからない。とにかく、白い塊が自分の靴から剝がれ落ちていることに私は気づいたのである。
 話を聞きながら足首をグリグリしていたからだろうか。色だけは真新しい白色の塊が、灰色のグラウンドによく映える。運動会当日でなくてよかった。そう思ったことははっきり覚えている。あれほどの白さにもかかわらず、その塊が私の靴から剝がれ落ちたものだということは誰にも気づかれなかった。気づかれていないはずだ。
「この白い塊は私の靴から剝がれ落ちたものです」
 クラスメイトたちにそう言えていたらどれほど楽だっただろう。だが、私にそんなことができるはずもなかった。私は慎み深かったのである。
 少しでも動くと靴底が剝がれ落ちるにもかかわらず、私は素知らぬ顔でグラウンドに立ち続けた。できるだけ動かないように注意して。それでも白い塊がグラウンドに散る。点々と。
 しかし、靴底が完全に剝が落ちることはなかった。なにしろ私はその日、家に帰ることができたのだから。たしかそうだったはずだ。靴を借りた記憶はなく、先生に呼び止められた記憶もない。
 やはり私はその靴のまま帰ったのだろう。自転車通学だったから少しくらい靴底が剝がれていたところで家に帰ることくらいはできた、ということなのかもしれない。

 それから数年後のことになる。謎の白い塊によって電車がとまったというニュースが流れた。テレビは駅のホームに散乱しているその白い塊を映していた。その白い塊は私の靴から剝がれ落ちたものによく似ていた。むしろそれそのものだったと言っていい。その白い塊が何なのか私にはすぐわかった。ポリウレタン材の靴の本底が剝がれたものだ。その日、その駅のホームで、私ではないべつの誰かの靴底が剝がれたのである。駅員にはそれが何なのかわからなかったのだろう。何か危険なものがまき散らされたと思ったにちがいない。歩くたびに剝がれ落ちたとなると、当然それが落ちている範囲も広くなる。
「現場は一時騒然となった」
 ニュースでそう言っていたのかどうかは覚えていない。いかにも言いそうではあるが、はっきりとは覚えていない以上、イメージだけで物事を語るのは控えたほうがいいだろう。どうやら危険なものではないということはわかったらしい。しかし、それが何なのかはわからなかったようだ。
「これは、靴底のポリウレタン材が剝がれ落ちたものです」
 私がその場にいたところで、果たしてそう声をあげることができただろうか。できなかったにちがいない。なにしろ私は慎み深いのである。それどころか、私は誰にもそのことを言えなかった。そのとき私はすでに父と暮らしていなかったからだ。運動会の前日に靴底が剝がれたことは、父にだけ話していた。

 祖父がつくった工場が潰れてから、父は働かなくなった。タバコを吸ってばかりいた。その工場をつくるために祖父が負った借金はまだ残っていたにもかかわらず。父はお酒を飲まなかったし、ギャンブルも女遊びもしなかった。ただずっと家にいてタバコばかり吸っていた。食事の前にタバコを吸い、食後にもタバコを吸う。結局、父と母は離婚した。私は母についていった。
 しかし、私は父が嫌いではなかった。もちろん好きでもなかったけれど、憎むほど嫌いでもない。ただ、父のことは愚かで小心者だとずっと思っていた。

 そんな父が階段から飛び降りたのは、私が十八年間住んだ家から引っ越すときだった。階段から飛んだ、と言ったほうがいいかもしれない。
 父と母は離婚することになり、それまで住んでいた家を売り払ったお金を分け合って、それぞれ新たな生活を始めることになっていた。とはいえ、そのお金のほとんどは父の借金の返済にあてられたのだが。
 私と父は二人でようやく持てるような大きくて重い荷物を運んでいた。具体的に何を運んでいたのかは忘れてしまった。指のかかりに不安を覚えていたので私は何度も「ちょっと待って」と声をかけたが、父はどんどん先に進んでいった。私の不安は的中する。階段で段ボールが傾いたときに、私の指が段ボールからすべった。二人がかりで運ぶような荷物の重量が父ひとりにかかったことになる。父は段ボールを支えることを早々に諦めた。なんて素晴らしい判断だったのだろう。あのまま段ボールを支えていたら、父は大けがをしていたにちがいない。私は飛び降りる父の背中を見ていた。両手が羽のように広がっていた。父は飛んだ。父は見事な着地を決め、それに少し遅れて段ボールが階段をすべり落ちていく。私は大笑いした。父の前で腹を抱えて笑ったことなど一度もなかった。そして、もう二度とない。

 数日前、父の姉から母に電話があった。日はすでに落ちていたように思う。暖房を点けた車内で、私は母から父の死を伝えられた。母と離婚してからというもの、父がどこで何をして暮らしているのか、私はまったく知らなかった。母も知らなかったようだ。
 私はその年の夏に普通自動車免許を取得しており、その日は最寄りのショッピングモールに行きたいという母を車に乗せていた。といってもその車は私の車ではない。ふだん母が使っている車を私が運転していたのだ。
 自宅に帰り着こうかというときに、後部座席に座っていた母の「もしもし」と応答する声が聞こえてきた。だから私はラジオを切った。そんなどうでもいいことばかり鮮明に覚えている。そのとき流れていた曲は、DREAMS COME TRUEの「何度でも」だった。
「お父さん亡くなったみたい」
 母がそう口にしたのは、私が駐車を終えてしばらくしてからのことだった。なぜ私は母の電話が終わるまで待っていたのか。わからない。私は母が電話しているあいだ何をしていたのだろう。それもわからない。私たちは車のなかにいた。そのことだけは確かである。
 そう言ったあとも母は、何かを言い淀んでいるような気配を見せていた。母は後部座席に座っていたから、母の表情がどんなものだったか、私にはわからない。
「びっくりしたよね」
 母の口ぶりからはあまりびっくりした様子は感じられなかった。おそらくその時点で、ほかに言いたいことはなかったのだろう。にもかかわらず、何かを言い淀んでいるような気配は車内から消えなかった。
 その後、私たちは車から出て家に戻り、晩ごはんの準備をした。そのなかでぽつりぽつりと父の死に関する事情がわかってきた。母はぽつりぽつりとしか話さなかったのである。私の伯母にあたるそのひとによると、なんの脈略もない心臓発作が父の死因らしかった。どうやら父は、その伯母のもとで働かずに生活していたらしい。
 母はその日の晩ごはんをほとんど食べられなかった。私はもりもりと食べた。しかし何を食べたのかはまったく覚えていない。

 葬儀は伯母によってすでに執り行われていた。しかし、いつからだろうか、私は父の死に対して、抜けのいい眺めを前にしたときのような晴れやかさを感じていた。西欧の大聖堂みたいに、どこかしかつめらしく静寂に寄り添う晴れやかさ。山などの自然の眺望による晴れやかさよりは、しかつめらしいほうが私のそれに近い気がした。西欧の大聖堂には行ったことないけど。
 いずれにせよ、悲しみが兆すことはなかった。家族が亡くなったときは悲しまなければならないのではないか。何となく獲得してしまった良識からか知らぬ間に得ていた社会的通念からか(良識も社会的通念もなんていやらしい言葉なのだろう)、ややもすると私は、家族を亡くした者にふさわしいとされている態度をみずからに課そうとしていた。
 だが、私は晴れやかな気分だったのだ。その晴れやかさを露悪的に吹聴するつもりはないが、その心情に対して不謹慎だと糾弾されるがままになる気はなく(わざわざ誰も糾弾しないとは思うけれど)、私自身が先まわりして言い訳めいたことを言うつもりもない。
 私の感情は誰にも奪わせない。そう言えればカッコいいのだけれど、事は父に関わるので強く主張するのも躊躇われる。父のことを大切に思っていたみたいで気に食わない。もっと雑に、何でもないことのように、そういうものだから仕方ないと片づけたい。

 借金は残っているのだろうか。残っているとしたら、相続放棄の手続きなどをしないといけない。父の死の知らせを受け取った日、私はそのようなこともぼんやりと考えていた。
 相続放棄のことは、父の借金を整理するためにほうぼうを駆け回っていた母から聞いた。おそらく母は弁護士に相談するなかでそのことを知ったのだろう。めんどくさくて嫌だなと私は思った。やらなければならないことは相続放棄だけではないにちがいない。めんどくさい。増えていく面倒事を思うと、晴れやかさは影を潜め、かといってその死が悲しみとなることもなく、ただただ父に腹が立ってくるのだった。
 しかし私は、借金や相続放棄のことだけを考えていたわけではない。私は父にまつわる何かを思いだそうとしていた。父が死んだからといって何かを思いだす必要はかならずしもないのだろうが、思いだそうとしていた。できればいい思い出がよかった。そうして真っ先に思い浮かんだのが階段から飛んだ父の背中だった。それとあともう一つ、私は父の背中を見送ったことがある。

 JR大垣駅の改札を抜けて突き当たりを左に曲がれば、階段とエスカレータに行き当たる。そこを降りた先はロータリーになっている。
 エスカレータの幅は想像がつくからいいとして、問題は階段の幅だ。エスカレータ以外はすべて階段になっている。その比率は五対一といったところだろうか。つまり階段の幅がとても広い。だから改札を抜けてからの通路も広い。
 その階段の手前を左に折れ、ちょっと進んで右に曲がると、ショッピングモールにつながる通路へと足を踏み入れることになる。そのショッピングモールの名はアクアウォークという。大垣市が水の都だからそう名付けられたと思われる。
 その通路には屋根が付いているが、通路に入るなり側面の壁が半分ほどになる。いきなり半分になるのか、徐々に半分になるのかは覚えていない。とにかく側面の壁が半分になるので、屋根が付いているにもかかわらず雨風の強い日には雨に当たってしまう。
 通路を少し進めば、ショッピングモールの広い駐車場が見渡せるようになる。そこにはいつもたくさんの車が停まっていた。とくに土日は混雑する。アクアウォークを利用せずに駅でどこか遠くに向かうひともなかにはいるのだろう。それはよくない。
 アクアウォークの駐車場を向かいに見据えつつ通路をさらに進むと、左手に大きな業務用スーパーや紳士服店やジムなどが並んだ区画が見えてくる。ショッピングモールとその区画は車道を挟んで向かい合っていた。その区画の駐車場も広く、たくさんの車が停まっている。
 しかし、その区画の駐車場はアクアウォークより混んでいない。その駐車場の入口にガードマンが何人か立っているのだが、みな車が入ってくるたびメモに何かを書き込んでいる。駅を利用させないよう、おそらく車のナンバーを控えているのだろう。長時間の駐車は注意されると思われる。もしかすると罰金が科せられることもあるかもしれない。とはいえ真偽のほどは定かではない。
 その区画を左手に見ながら通路をしばらく歩いていくと、左に曲がることになる。通路が左に折れているのだから、そこを歩いているひとたちも左に曲がらざるを得ない。いちおう階段を使えば、その通路から降りることはできる。アクアウォークに行くことなく通路から降りたい場合は、左に曲がるところを右に行けばいい。すると、取ってつけたような階段が見つかるはずだ。
 とりあえずアクアウォークに辿り着こう。通路を左に曲がってから、もうしばらく進んで通路を右に折れると、ショッピングモールの自動ドアが目に付く。ようやくアクアウォークに入ることができる。そのドアを抜ければ右手には本屋があり、左手ではゲームセンターがきらびやかにモール内を飾り立てていることだろう。

 父の死の知らせを受け取った日、JR大垣駅の改札前からその通路を渡り、ショッピングモールのなかへと入っていく父の後ろ姿が思いだされた。もちろん私はすべてを見たわけではない。せいぜい駅の通路までしか私には見えていなかったはずだ。だが私は父の死を知った日、背後からぴったり追うようにして、父が急ぐさまを思い浮かべていたのだ。

 私の横には祖母がいた。母方の祖母である。祖母は丸々と太っていた。ピザが大好物だった。私は祖母とよく食事に出かけたが、いつも食欲旺盛で、その食べっぷりを素直に喜べることもあれば、あまりのがっつき方に鼻白むこともあった。母の手を借りてこまめに髪を染めていたから、その体格とあいまって祖母は年齢よりも若々しく見えた。杖をついていなければ、さらに若く思われたことだろう。とりわけ膝が悪く、祖母はそのときには四点杖をついていた。しかし、住み慣れた自宅では杖などを使わず一人で用も足せたしお風呂にも入れた。とはいえ外出するときには注意が必要だった。大事には至らなかったが、じっさい祖母は外出時に何度か転んだことがある。だから、祖母を一人にしまいと私が横に立っているのだ。
「祖母」と呼ぶのはよそよそしくてどこか居心地が悪いから、「おばあちゃん」と書きたい。私は母方の祖母と仲がよかった。だからなのか「おばあちゃん」と書くことには恥ずかしさを感じない。しかし「父」のことを「お父さん」と書くのは気に食わない。やはり父とはあまり仲よくなかったからだろうか。
 私たちはおばあちゃんの姉妹たちとの食事会を終え、大垣駅にいた。その食事会は、おばあちゃんの脚を考慮して、大垣駅に組み込まれた商業施設内の店で催された。その商業施設はアクアウォークとはべつのものである。改札前はひとの出入りが激しいため、改札からの突き当たりを少し左に曲がったところに私たちは立っていた。夏も終わりを迎え、駅を行き交うひとびとの装いがすっかり秋めいている。脚の悪いおばあちゃんはエスカレータを使うことができなかったので、エレベーターを利用して改札のある二階まで上がってきた。
 エレベーターに乗るとき、私はよく行き先のボタンを押し忘れる。とはいえ、けっしてエレベーターに乗ることを軽んじているわけではない。箱に足を踏み入れただけですべてをやった気になってしまうのだ。その不手際をなんとか減らしたいと私は考えている。利用客の多い施設のエレベーターならば何の問題はないが、私ひとりしか乗る者がいないとき、たとえばさびれたショッピングモールのエレベーターなどで(私はめんどくさがり屋なのでエスカレータよりもエレベーターのほうが近くにあればひょいとそれに乗ってしまう)、その迂闊な失策はいつも私の感情を恐怖で揺さぶるからだ。
 行き先のボタンが押されていないエレベーターは、当然ながら上昇もしないし下降もしない。にもかかわらず、私はすっかり目当ての階に行くつもりでいる。だからボタンを押し忘れたことに気づくのが遅れるのだ。そして気づいたときには、すでに奇妙な間が差し挟まれている。まるで関節が外れたかのような時間のなかをただよう。そのとき、私はどこにいるのだろうか。私? ボタンの押し忘れに気づくと、いつも怖くなって慌ててボタンを押す。あらゆるものから、ほんとうにすべてのものから見放されたら、同じ恐怖を感じることだろう。もちろんそんな経験はない。でもそう感じている。
 その日、私はちゃんとエレベーターのボタンを押すことができた。だから、世界にひとしく流れている時間から弾き出されることなく、私とおばあちゃんはこうして並んで立っているのである。
「死んだら守護霊になってあげるからね」
 もうやり残したことはない、あとは死ぬだけ、と呟くと、少しの間を挟んでおばあちゃんはそう言った。おばあちゃんは私が高校に上がったあたりから、よくそう口にするようになっていた。私は十六歳で食事会の日を迎えていたのである。
「守護霊になったら宝くじ当ててね」
 私はいつもそう答えていた。それも何十万、何百万単位のつもりではなく、洒落にならないくらいの高額当選をお願いする気で話していた。しかしおばあちゃんは耳も悪かったから、私の迫真さがどこまで伝わっていたのかはわからない。
 おばあちゃんの守護霊としての能力を測りかねていると、父が戻ってきた。タバコを吸いに行っていたことが臭いでわかった。一刻も早くタバコを吸いたかった父は、おそらく駅に組み込まれた商業施設内の喫煙室にいたのだろう。
 祖母の姉妹たちとの食事会はフォーマルな集まりではなかったが、父はスーツを着ていた。そのときすでに父はタバコを吸うばかりの日々を送っていたので、少しでも体裁を整えるため、母にスーツを着ていくよう言われたのかもしれない。父のスーツ姿を見たのは、小学校の授業参観以来、二度めである。
「お待たせしました」
 父は祖母にそう声をかけたが無視された。祖母の耳が悪かったことに加えて、父もあまりはっきりと話すほうではなかったから、よく聞こえなかったのだろう。祖母は怒っていたわけではない。その食事会で父が何かしら粗相をしていれば、もしかすると怒っていたのかもしれないが、父はとくにこれといった失態を演じることなくその会を終えたように思う。
 もちろん父が祖母の姉妹たちからどのように思われていたのかはわからない。祖母の姉妹は五人いた。つまり、長女である祖母を含めて六人姉妹ということになる。そのときの食事会には、そのうちの四人が東京や京都からやってきていた。
 予定では、父ではなく母がその食事会に参加するはずだった。その食事会の段取りも母がすべて整えていた。しかし、その二日前だっただろうか、母にどうしても外せない仕事が入ってしまったため、父が急遽その食事会に行くことになった。もちろん父は渋ったが、母に強く言われて断れるわけがない。祖母を乗せるために車を出したり、祖母の姉妹たちを予約した店に案内したりしなければならなかったので、もともと参加することになっていた私のほかに大人の力がどうしても必要だったのである。
 私も同伴者が父になって嫌だった。でも父の不安は私の比ではなかっただろう。なにしろ私以外に気安く話せる人間はいなかったのだし、私のように大叔母たちからお小遣いをもらえる見込みもなかったのだから。
 母のいないときに父が「アーッ!」と大きな声を出していたのを覚えている。父は苛立つとよく大声をあげていた。しかし、以前は人前でも平気で声を荒げていたにもかかわらず、タバコの本数が増えるにつれて、隠れて苛立つようになっていった。
 とうぜん食事会前日のタバコの本数はかなりのものだった。よく二本同時に吸わなかったなと思う。タバコを二本くわえる人間を現実に見られる機会は滅多にないから少し残念ですらある。もし二本同時に吸っている場面に出くわしたら、「海外のやんちゃな映画スターみたいだ」と父に声をかけることができただろう。
 しかし、父と同じように、大叔母たちも困っていたはずだ。父と会ったことがあるのは、そのうちの二人くらいだったにちがいない。それも、いちど会ったことがある程度の関係だと思われる。まったく父に話しかけない大叔母もいた。とはいえ、そのような状況は私にとってもたいして変わりはなかった。むしろ父よりも私のほうが居心地の悪い思いをしていたと言えるかもしれない。おそらく小さいころに会ったことはあるのだろうが、私の記憶にあるひとは一人もいなかったのだから。
 料理に関しては、母によってすでに手はずが整えてあったので、私たちは順に出てくる海鮮メインの品々を食べるだけでよかった。食事会はおもに、妹たちが長女である祖母に何かを話しかけ、うまく聞き取れた場合は祖母がそれに答えるというかたちで進んでいった。
「このお刺身おいしいわね」
「ほんとおいしいわ」
「あらほんと」
 私と父が口を開くのは、ほぼ料理を運ぶときに限られていた。しかししばらくすると、さすがに何も話しかけないのはまずいと思ったのだろう、大叔母の一人が父に声をかけた。
「それにしてもヨシヒロさん、相変わらずシュッとしてらして、お顔もよろしいわね」
 ヨシヒロが父の名だと理解するのに少し時間がかかった。ヨシヒロは「はあ」と間の抜けた声を出してその大叔母の言葉を受けたが、そこに何かを継ぎ足すことはなかった。そういうとこだぞと私は思った。
「ほんとよね」
「ほんとね」
 幸いほかの大叔母たちが取り繕ってくれたので、その場が気まずくなることはなかった。ヨシヒロは感情の読み取れない表情でちいさく頷いていた。
 しかし、私はヨシヒロに厳しすぎるかもしれない。ヨシヒロはただ口下手なだけではないか。顔がいいと言われて、気の利いたことを返したり、そんなことないですよと軽快にいなしたりできなくてもかまわないではないか。ひょっとすると、私のほうがよほど嫌なやつなのかもしれない。何が「そういうとこだぞ」だ。もし「社会」みたいな顔をしてそんなことを思っていたのだとしたら、私はそいつが嫌いだ。 
 私たちは改札前で別れた。大叔母たちは一様に「元気でいてくださいね」と祖母に声をかけ去っていった。大叔母たちのすがたが見えなくなるや、ヨシヒロは何も言わずにどこかに行ってしまった。タバコを吸いに行ったとわかるのは、彼が戻ってきたときだ。「では車を回してきます」
 父が祖母にそう声をかける。祖母に無視されたことを気にしている様子はなかった。しかし、その言葉も祖母には届いていないようだった。車はアクアウォークに駐めてあったので、父はそこに向かわなければならない。
 そして父は走り出した。肩を揺らし、腕を大きく振りながら走る。かたちだけ急いでいるような走り方ではなかった。ほんとうに急いでいた。それでも走り慣れてないらしいことはなぜか伝わってくる。関節の動きに違和感があったのだろうか。腕の振りのわりにストライドが窮屈だったのだろうか。ふだん走り慣れていない大人が走る。それだけで妙におかしい。ましてや父が走るとなればなおのことおかしく思える。走り方がカッコよくても悪くてもおかしい。父の背中がみるみる遠ざかっていく。
 しかし、父はなぜ走り出したのだろう。おばあちゃんを待たせまいとしたのだろうか。だとしたらやさしい。いや、ほんとうにやさしかったら、タバコ吸いに行く前に車を回すはずだ。私はおばあちゃんの耳もとへと顔を近づけていった。
「お父さん、車回してくるって」
 おばあちゃんはゆっくりと頷く。
 そうして私たちは歩き始めた。車に乗るにはエレベーターで一階に下りなければならなかったからだ。おばあちゃんの足取りに合わせてエレベーターに向かう。ボタンを押して扉が開くのを待ってからそれに乗り込むと、私はおばあちゃんに話しかけた。
「大人の男が走るのってなんかおもしろいよね」
 おばあちゃんに私の声は聞こえていないようだった。だが、まるで私の言葉に反応したかのように、おばあちゃんは口を開く。
「どこにいくんだい?」
 私は行き先のボタンを押し忘れていることに気づいた。

 駅や何かの施設の階段で、私は急いでいる男のひとを何度か目にした。遠ざかっていくその後ろ姿を見ると、父を思いだすことがある。私は父に会いたいのだろうか。そんなことはない。ないはずだ。二度と会いたくないほど嫌いなわけではないが、とくべつ会いたいと思ったことはない。どちらかというと会いたくないとさえ思っている。誰が好き好んで働かない大人の面倒を見るというのだろう。
 しかし、スーツ姿であっても、ラフな格好であっても、遠ざかる背中を前にすると、父にもういちど会えるのではないかと思ってしまうことがある。その背中を追い越して振り返れば、あるいは、その背中に手をかけて呼びとめれば、父が振り向くのではないか。ありえない。父は死んでいるのだ。たとえその背中が父にどれほど似ていようとも、振り返るのは私の知らない誰かだろう。
 でも、と考えてしまう。でも、もし、あの遠ざかる背中は父かもしれないという予感を忘れてその背中に先まわりすることができれば、その背中もその予感も、さらには先まわりしたことさえも、すべて忘れて思いがけず出会うことができれば、父に会えるのではないか。
 父ともういちど会うことがあったらなんて声をかけよう。父は私に気づくだろうか。気づいたとして、口下手な父といったい何を話せばいいというのだろう。なぜ食事会があったあの日、急に走り出したりしたのか。いやちがう。もちろんそのことも訊きたいが、私がまっさきに訊きたいのはちがうことだ。
 階段から飛び降りたとき、落ちていく速度は速いのか遅いのか。

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