カフカの日記を読む日記 4(2024年6月12日から6月20日まで)

2024/06/12

 現にそういう研究は無数に存在するし、どれに焦点を絞るにせよ、カフカ好きとしてはどのアプローチも詳しく検討したいところだ。しかし、それらを差し置き、この私自身の日記のなかで私が強調したいことは、ただ一点である。


2024/06/16から6/19

「カフカ的なもの」があるとすれば(いやいや、そんな大上段に構える必要なんてなくて、小説であれ何であれ、本なんてみんな好きなように読んだらいいと思うし、もちろん「好きなように読む」という読み方がいちばんいいと言うつもりもなくて、何かを読むに際して知識をひけらかすのもありだし(読むためにはコンテクストがどうしたって必要なときもあるからね)、「読み方に口を出された!」と喚き散らすのもありだし(上から目線で「正しさ」を押し付けられるのは誰だって嫌だ)、あらすじをまとめるだけなのもありだし(自分なりの感想ってけっこう難しい)、なんであれ本の読み方は自由で、それどころか、自由であることからも自由でいい(たとえそれが不自由を意味することになるとしても)。だから「カフカ的なもの」なんてほんとうはどこにもないのかもしれないけれど、今後の指針としておれなりにそれを見定めるとすれば、という程度の意味で)、それは「決定できないこと」なのではないか、という点だ。


2024/06/20

 「決定できないこと」。
 それはカフカのichに対しても言えないだろうか。「ぼく」や「私」などよりもさらに根源的なところで、彼のichが揺れ動いているとしたら。ドイツ、プラハ、ユダヤなどのあいだで、決定不可能なまま揺れ動くich。


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