【前編】存在のまぶしさ、あるいは母の気合い

 弟の車に乗り込んだ私の顔を見るなり、甥っ子と姪っ子が妙に緊張感のある様子で口を開いた。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 どうやら二人は新年の挨拶を何度も練習していたらしい。緊張感から解放された甥っ子が晴れやかな笑顔を向け、私の名前を呼び捨てにする。なぜ自分の名前が呼ばれたのかわからなかったが、私はそれに「ういっす」と応じた。
 弟がある和食屋の名前を口にする。私たちはその和食屋で母と待ち合わせをしていた。私と弟から見れば母だが、甥っ子たちからすると祖母である。「そう、その店」と私は答えた。

 私と甥っ子は後部座席に座っていた。助手席の姪っ子は後ろにいる私のことを多少気にしながらも、父親である弟にしか話しかけない。
 甥っ子は小学一年生で、姪っ子は三歳だという。二人とも親に似て涼やかな目もとをしていたけれど、表情がころころ変わるからなのか、単純に身長が低いからなのか、全身にまとう雰囲気は子どもらしさに満ちている。
 一月なのにとても暖かくて、車内の空気もどこか陽気だった(やがて甥っ子は車内に舞う埃を捕まえだすだろう)。弟とはM―1の話をした。
「真空ジェシカがいちばん面白かったんだけどなあ」
 弟は真空ジェシカを応援していたようだ。そういえば、真空ジェシカのラジオを聴いていると言っていた。私も真空ジェシカには、ぜひともM―1チャンピオンになってほしいと思っている。
 甥っ子とは取り留めのない話をした。取り留めがなさすぎて、まったく記憶に残っていない。それでも楽しかったことは覚えている。季節外れの陽気さのおかげで、なんとなく楽しい気分になっていただけかもしれない。

 私たちは目的地の和食屋に着いた。車を降りてもやはり暖かい。さきに到着していた母が店先に出てきて、店員のように私たちを出迎えた。母は気合いが入っている。母のその様子を見て、気合い入ってるなあと私は思った。
 和食屋には靴を脱いで入らなければならなかった。母がここに下駄箱があるからねと指示する。個室はなかったが、テーブルごとのスペースは広くとってあったので、子どもがいてもゆったりと食事を楽しめそうだった。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 甥っ子たちは、母に対しても私にしたような挨拶をした。やはり妙な緊張感が走る。母は「あけましておめでとう」と返した。平静を装っていたが、やはり気合いが入っているように私には映った。
 店員が水を持ってきて、注文が決まったらまた呼んでほしいと言い残して去っていった。私たちは食べたい料理を選ばなければならない。甥っ子は刺身定食を選んだ。とても素早い決断だった。刺身が大好物らしい。
「刺身さえあればいい」
 この言葉は、甥っ子が刺身を食べながら洩らしたものである。そのとき甥っ子が食べていたのは、真っ赤なマグロの刺身だ。私はその意見に異を唱えたかったけれど、なんとか我慢した。そこでいちいち賛同できない旨を述べていたら、いい伯父さんにはなれない。できることなら私はいい伯父さんになりたい。

 食事の最後にはリンゴのゼリーが出てきた。姪っ子が「リンゴだ」と嬉しそうに言って、皿を傾け中身を私に見せてくる。固めのゼリーだったので、お皿を傾けてもこぼれる心配はなかった。しかし問題は別のところにあった。私の前にも同じゼリーがあったのである。
 いい伯父さんになるためには、私はそのゼリーを初めて見たかのように応じなければならない。だが私にはそれができなかった。「そうだね」と私は答えた。私には気合いが足りないのだろう。母のような気合いが。
 私たちはゼリーを食べ終えた。私がもっとも早くゼリーを食べ終えた。
「ママ迎えに行く?」
 甥っ子が弟に訊く。弟は奥さんを迎えに行かなければならなかった。それから私たちは再び合流して、夕食も一緒に食べることになっていた。母が立てた予定である。今日の母は気合いが入っていた。気合い入っているなあと私は思った。
「そうだねえ。でもまだちょっと時間あるんだよねえ」
 弟のその言葉に母がすかさず反応した。
「なら喫茶店いこ、喫茶店」
 母の言葉に弟はなぜか寂しそうに微笑むばかりで、行くとも行かないとも言わなかった。甥っ子も姪っ子もとくに興味を示さない。小さな子どもならこういうとき、わけもわからず「いきたい!」と言いそうなものである。もちろん私も静かにしていた。
 それでも、私たちは喫茶店に行くことになった。今日の母の気合いは尋常ではない。

 私たちは喫茶店に向かうことになった。帰り際におみやげがもらえるという話題の喫茶店である。しかし、そこへ向かうために、私はどちらの車に乗ればいいのだろうか。弟の車か母の車か。私は甥っ子にどうしたらいいか尋ねた。
「パパの車にしなよ」
 甥っ子はそう言った。どうやら和食屋までの時間のなかで、私は甥っ子に 少なくとも嫌われはしなかったようだ。
「パパの車に乗ってほしい?」
 これは私の言葉である。そうなのだ。私にはこういうことを訊いてしまう、意地悪なところがある。よくない。私のような意地悪な人間は、気合いの入った母と二人きりの密室に押し込められるべきなのかもしれない。しかし甥っ子は、私の質問に少しモジモジしたのち頷いた。
「よし、パパの車に乗ろう!」
 ほかの選択肢は残されていなかった。すると姪っ子も後部座席に乗ると言い出した。どうやら私は姪っ子にも嫌われていなかったらしい。意外だった。こうして私たちは、母が運転する車を後ろに従え、さきほどと同じメンバーで喫茶店に向かうことになった。

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