占領下の抵抗 / 志賀直哉のエッセイ『国語問題』をめぐって
はじめに
志賀直哉の随筆はどれも面白い。その中には「フランス語を日本の国語にする」と主張した『国語問題』 [1]も含まれています。これがなんともいい。含蓄に富む文章です。
「フランス語を日本の国語にする」とだけ聞いた時と『国語問題』を通読した後とでは、印象は全く違います。そこには志賀直哉独特のアイロニーがある (ⅰ)。
しかしこれは単なる皮肉(cynicism)ではありません。志賀はフランス語を日本の国語にする事を本気で考えていたと思います。
それは11年後に座談会(『志賀氏を囲んでの芸術夜話』 [2])で、あれは本気だったと改めて強調していることからも窺われます。
『国語問題』は敗戦後まもない1946年
というような時に、戦前・戦中に飛び交った生硬な言葉への反省から国語の改革の研究会が出来、志賀もその発起人となるという背景のもとで書かれています。
志賀直哉はその中で
その改革の必要を感じながらも国語の改革に対しては悲観的であるとし
と言い、その事の先見性を説きながら、いっそのこと
それにはフランス語がふさわしいというのです。
このように纏めてしまうと、自国文化を卑下し、西欧文化を無闇に美化するような愚かな考えに映るだろうと思います。
しかし前述したように、私にはとても含蓄のあるものに思え、初めて読んだ時、密かに興奮したのを覚えています。
この随筆は簡潔で、行間をどう読むかで印象が異なってくると思うので、なかなか実証的に語るのは難しいのですが、私がこれをどのように捉えたのか思い起こし、後に得た知見も交えながら以下に詳しく論じてみます。 [1]
志賀の主張の背景と意義
まず敗戦を受け入れた日本は連合国総司令部(G H Q)の統治下に入りました。
これは連合国と云いながら、実質はアメリカの支配でした。その事はこの随筆が書かれた時には既に明白でした。だから本気で西欧の言語を国語とするのであれば、G H Q の力を借りながら英語を選択するのがもっとも近道で、実現の可能性が高かった事は明らかです。
しかも志賀は
森有礼の主張を引いて論じているのですから、ますます英語とするのが順当です。
なのに「もっともいい」とか「美しい」とか言ってフランス語を選択するのは何ともおかしい。
このことが志賀は本気ではなく、ただ皮肉を言っただけだとする見解に一定の根拠を与えています。しかし私はそうは思いません。
確かにそこには志賀独特のアイロニーがあります。
ですが同時にアメリカの支配に対する痛烈な批判と抵抗があると、私は思うのです。 [1]
敗戦後の日本で英語が国語となるということは、アメリカにその気があれば十分に可能だったのではないかと思います。戦争に敗れて他国の支配を受けるとはそういう事です。
とはいえ、アメリカは国語の改革は進めつつも、そこにおいて英語を導入する意思はなかったようです。
「国語ローマ字化の研究 改訂版ー占領下日本の国内的・国際的要因こ解明ー」 [3]の中で茅島篤は、アメリカ側に英語重視の考えがなかったかを丹念に調査し
と結論づけています。
ポツダム宣言に基づき間接統治を前提としたG H Q には、国語の変革については慎重な姿勢があったようです。アメリカによる国語の英語化は差し迫ったものではなかった。(xiii)
しかし同著に即して書くと
日本の降伏文書調印式の翌日の1945年9月3日にG H Q は
自治体の名称、駅や主要道路標識は
との指令を早くも出しています。
そして日本語のローマ字化への動きも始まります。同月30日に来日した国語ローマ字化の中心人物 R・Kホールは、同年11月10日に文部省教科書局の有村光次郎に国字ローマ字化を示唆、同月12日にホールは国語改革担当官に任命され、それに同調するかのように、同日読売報知新聞には社説「漢字を廃止せよ」(「ローマ字採用論」)が出ています。
そして1946年3月30日にG H Q 最高司令官・ダグラス・マッカーサーに提出された米国対日教育使節団の報告書には
漢字の全廃と
が提言されています。(xxvii)
これら日本語のローマ字化の動きは英語の公用語化と表裏一体に見えます。
使節団報告書の中にはローマ字化の利点として
とあります。これらの利点は英語の導入についての方が、さらによく当てはまると思います。
街に英語の表示が並び、英語を話すアメリカ人が闊歩する中で進められるローマ字化の動きを見て、当時の日本国民の中に国語が英語になる事を本気で危惧した人々がいたとしてもおかしくありません。
特に国語の改革を唱えたような知識人層の多くはそう考えたのではないかと思います。(xx)
国語の改革を唱えることは、一見するとそれまでの日本社会・文化を否定し、新しい社会・文化の創造を目指しているかのようですが、そこにはアメリカの支配を受け入れながらも、ぎりぎりのところで英語の公用語化を塞ぎ、日本語と日本文化を守る抵抗運動という側面があったのではないかと思います。(xxx)
ローマ字化と結びつく事によって分かり難くなっていますが、漢字廃止論は賀茂真淵の漢字批判(『國意考』 [4])や本居宣長の漢文の否定(『玉勝間』 [5])に淵源する国学的理想と云う側面があり、ナショナリズムが基にあります。
国語改革派の運動はこのナショナリズムと通底していたと、私は見ています。
これは全面的ローマ字化もしくはカナ文字化を主張した論者(土岐善麿など)から、最終的には漢字の制限・簡略化を目指した論者(山本有三など)までに共通したものだったのではないかと思います(ⅱ) 。
志賀直哉の主張はこういったナショナリズムとは異質です。しかしやはり抵抗の一つだと思います。
敗戦が迫り来る中で、敗戦国が外国語を国語として受け入れることは避けられないと志賀は真剣に考えたのだと思います。
それが
という事の意味だと思います。(xxxiii)
薩英戦争で英国に完膚なきまでに敗れた薩摩の森有礼を、志賀が自身と重ねたとしても不思議はありません。
志賀にはもはや外国語が日本の国語になる事は避けられないものと映った。それが国語の改革に悲観的になった理由の一つです。
もちろんそれだけが理由ではないのですが(後述します)、志賀にとって米国支配下での国語の改革が、絵空事に思えたとしても納得がいきます。
そうであれば国語の改革(そこには漢字の廃止とローマ字化も視野に入る)という不徹底な事をするより、広域で使われている国際語たるフランス語を導入する事で英語に対抗した方が良いと、志賀は考えたのだと思います。
「世界中で一番いい言語、美しい言語」はフランス語だなどと言うのも、暗に英語は「世界中で一番いい言語、美しい言語」ではないと言っているのだと思います。そう考えると実に辛辣な主張です。
しかも
というのは、G H Q の支配下であればそれが可能だという意味にも取れる。それを英語ではなくフランス語でやれという訳です。なんとも痛烈です 。が、それは殆ど実現する可能性のない事に思えます。志賀もおそらくそう思ったでしょう。
しかし形式的なものであっても連合国にはフランスが含まれていました。
幕末、アメリカが先んじて日本の最恵国としての条約を結んだ後に、イギリスとフランスがアメリカよりも有利な条約を日本と結ぶ事を画策したように、今回もフランスが動いてくれないかと、その少ない可能性にかける思いも志賀にはあったのだと思います。
そのような機縁が少しでも見えれば、自分の作家としての名声を利用して、国語改革の研究会の発起人として出来うる限りの力を注ぐ覚悟が志賀にはあったのだと思います。それが、11年後に座談会 (『志賀氏を囲んでの芸術夜話』 [2])で、あれは本気だったと語ったことの真意だと思います(ⅲ) 。
そして『国語問題』を、本気でありかつ可能性の薄いことも心得た人の文章として読むと、辛辣であるとともに、とてもユーモラスにも思えてきます。
例えば検閲される事を前提で、検閲官の気持ちで志賀のこの文章を読むとどうでしょうか。(当時の日本の出版物が G H Q の検閲を受けていた事は江藤淳が『閉ざされた言語空間』 [6]で詳しく追っていますが、当時の作家にとっては自明のことであったと思われます。)
改めて論旨を簡単に追ってみます。
⑦まで読み進んだ時、これは「英語を採用すべき」と来るのだと検閲官は思ったに違いありません。それが次に⑧と来る。
しかもその後で、フランス語をよく分かっているわけではないが、フランス語が一番良さそうな気がするなどとはぐらかす。
検閲官は苦笑いするしかなかった事でしょう。論旨の流れをこのように組んだのは、志賀の悪戯だろうと思います。 [1](xxiv)
国語の不完全性と外国語導入をめぐって
しかし、それにしても疑問は残ります。それはなぜ
のか?という事です。
アメリカへの対抗としてフランス語の採用を主張するだけなら、フランス語が世界中で一番いい、美しい言語だと述べるだけでも良いし、その主張を補完するために日本語の不完全さを唱えるにしても、ただそう述べるだけで十分だと思います。
日本語は不完全だという主張はこれ以前にもあり(森有礼もその一人)、志賀がそれを主張すれば、暗にそれらの考えに同意したと捉えられるだけで特に説明はいらない。
志賀直哉の長年にわたる文筆活動も自明のことで、簡潔な文章を得意とする志賀がわざわざ「日本の国語が如何に不完全か」ということを「四〇年も日本語で文筆活動を行なった末に」痛感したとしつこく述べているのはとても大袈裟だと思います [1]。
そして作家らしくよく纏まった『国語問題』と比べ、昭和22年と23年の対談ではもっと言いたい放題です。
と言い放ったり
と憤ったりしています。
両対談は論旨がはっきりしない部分もあり、全てをそのまま受け取って良いのか分かりませんが、しかし日本語に不満があることは強く伝わってきます。
やはり志賀は、日本の国語が不完全であると本気で考えていたのでしょう。
ここで重要なのは、志賀が『国語問題』のなかで不完全だと言っているのが、終始「日本の国語」であるという事です。おそらくこれは日本語全般のことではないのだと思います(ⅳ) 。
日本語を母語とする志賀は、文筆活動を行う中で、母国語としての日本の国語に限界を感じていたのだと思います。 [1]
遡れば明治以降の国語(標準語)(xxxv)は、西洋列強の脅威の下にその影響を内面化し、改革された日本語です。
明治の国語国字改良時には
これは戦後に議論された項目をほぼ網羅しています。
これらの議論は標準語の制定を望む国家の後押しの下に行われました。
それと同時に様々な作家が言文一致体を作品の中で試していきます。(xxxvi)
すでに多くの言文一致体が試され、国語国字の改良の議論がなりを潜めた明治末年に創作を始めた志賀の文体は、それまでの言文一致体を踏まえてさらに磨き上げた一つの完成品であると云った趣があります。
菊池寛はその簡潔な文体に率直に驚き、賛美の言葉を寄せています。(『志賀直哉氏の作品』 [8])
さて、標準語(国語)は、単純化できない部分もありますが、それでも基本的には志賀の育った東京の山手の言葉を元にしています。そして山手の言葉は標準語の元となっただけに、反作用として標準語化の影響を強く受けたと云います。(『東京語−その成立と展開』田中章夫 [9])
志賀は当時の日本において、標準語(国語)に近い言葉を話し考えることができた数少ない一群に属していたと云っていいと思います。15年間暮らした奈良でも娘たちが奈良弁を話すなか、志賀は東京弁で通したそうです。(『志賀直哉』阿川弘之 [10])
これは移り住んだ関西を愛し、『卍』 [11]のような関西の口語の小説を書いた谷崎潤一郎とは随分と違っています。このように標準語(国語)に近い言葉で育ち、その言葉を意識的に守り通した事と志賀の鋭敏な言文一致体は、おそらく無縁ではないでしょう。
志賀が最初に日本語への違和感を示したとされる『五月蝿』 [12](昭和20年11月)では
と言う息子の言葉を挙げ、その他にもこまごまとした日本語の不合理な点を挙げています [12]。
しかし簡潔な言文一致体を完成した志賀のような作家が、今更このような事で日本語を不完全というのはおかしい。国語改革の議論をきっかけに『五月蝿』の中に出てくるような事にも、より目が行くようになった事は確かでしょう。ですが『国語問題』で具体的な話を避けた志賀が感じた日本語の不完全さは、もっと根本的なことだったのではないでしょうか。
志賀がどこまでそれを意識的に分析できていたかは分かりませんが、志賀は日本の国語に息苦しさを感じていたのではないか。
それは一つには日本語の多様性によると思います。当時、志賀の育った東京の山手でも多くの人はどこかしらの方言が混ざる。志賀の両親も東京の出身ではありません。志賀を育んだ言葉も本当は「東京の山手の言葉」と簡単には括れません。(『志賀直哉』阿川弘之[10])志賀は奈良や尾道(広島)にも暮らし、方言の多様性はよく分かって思いた筈です。それらの表現を包括的に取り込める言葉などはありません。これは今よりも志賀の時代にはより顕著でした。
しかも志賀の時代、古語の文学・和歌の伝統・漢詩の素養なども根強くありました。ますます出来たばかりの標準語(国語)では対応が難しくなります。
さらに国語には明治以降、多くの西欧の言葉が短期間に取り入れられています。これらの言葉はたとえ学術的な言葉であっても、原語の中では母語と結びつく豊富なイメージをも持ちますが、日本語の中ではそうはいきません。しかもそのような言葉の多くは漢字で表記されます。
漢字の表記は、漢語(中国語)の中では広いイメージのつながりを持つとしても、日本語にとってはもともと外国語で、疎遠なものでした。過去に漢語を日本語に取り入れた経験は、明治の西欧語受容と類似性があり、漢語受容の時の手法を真似て、西欧の言葉を漢字表記に翻訳して日本語に取り入れた訳です。それは日本の国語を豊かにしつつも、原語が持つイメージを切れ切れにしてしまった。
このような外来語の受容という意味でも、標準語は改革された言語でした。
このように諸方言や伝統との乖離と外来語の導入が急激であったことが、日本の国語を不完全なものにしてしまった。これは日本語の改革の結果です。
これはある意味避けられなかった事ですが、その不完全さを一番に感じていたのは、長年にわたって言文一致体の完成に尽くした志賀直哉のような人ではないかと思います。
そんな改革された日本語をさらに改革することに、志賀はどうしても賛成できなかったのだと思います。(これが国語の改革に悲観的だった二つ目の理由です。)
やれることはやって来たという自負もあったかもしれませんし、単に疲れてしまったのかもしれません。諸方言に取り囲まれ、文学者として古典にも触れつつ、東京の言葉を守りながら外来語溢れる国語で文学を書く事に。
分からないでもありません。言葉は本来国策としてではなく、自然に混じり合い変化するものです。その中から純粋な日本語を抽出するような志賀の作業は、無理のあることだったのかもしれません。(xxix)
ではフランス語を導入すれば日本の国語は完全なものになるのでしょうか?
はフランス語であるという表現から、志賀がそう思っていたと考える向きもあるでしょう。しかし上述したように、この表現は米国の支配と英語の導入に対抗するためのものであって、本気でそのように思っていた訳ではないと思います。
志賀は『国語問題』の中で
なんとも無責任な事を言っています 。
こういった発言を真正面から捉えるべきではないでしょう。これも志賀独特のアイロニーなのだと思います。
博識な志賀は、おそらくフランス語について論じるだけの知識は十分に持っていた。しかし志賀の主張は、そのような知識とはなんら関係がないので、わざと無責任な事を言ったのだと思います。
なぜならフランス語を日本に導入すべきなのはその良さや美しさにあるのではなく、英語に対抗できる国際語であることにのみあるからです(ⅴ) 。
ではフランス語を日本に導入したらどうなると志賀は考えていたのでしょうか?
志賀は言います。60年前に森有礼のいう通りに英語を日本に導入していたなら
こうして生まれる日本語の語彙と表現を取り入れた西欧語は、外来語を取り入れた日本の国語とは逆向きの混成言語であり、完全なものとはとても云えません。
国際的に広がった言語がさまざまな語彙を取り入れ豊かになったり、多くの人が使いやすいように変化したりすることが仮にあったとしても、それは完全なものになるという訳ではないでしょう。
国際語が発達する過程は終わりがなく、それは常に揺れ動く不完全なものであるという宿命を負っています。それはエスペラントのような人工国際語であっても変わりません。
現代言語学の祖ソシュールの『一般言語学講義』では
と記述された後、人工言語について
と書かれています。
これはどんなエスペラント批判よりも根本的な批判であり、言語の本質を物語っています。完全な言語という観念が、そもそも誤謬なのです。(xxii)
エスペラントの熱烈な支持者であった白樺派の盟友・武者小路実篤や有島生馬を通して、志賀はエスペラントについても知悉していたと思われます。
ザメンホフが様々な言語の比較と分析から生み出したエスペラントは国際的な言語の実態についての知識と不可分のものです。外国語を日本に導入した場合についての志賀の考察は、世界の植民地における外国語の導入とその現状についての知識に基づいているのだと思います。しかし志賀はフランス語について語った時と同様、その知識を披瀝する事はしません。
ただ
と匂わせるだけです(ⅶ) 。
外国語が公的に導入された地域で、現地の母語が必ずしも完全に葬り去られるわけではありません。それは併存しつつ混成もする。そのような場合に母語は外国語の抑圧の下で、アイデンティティの拠り所として強化される可能性も考えられます。(ⅷ)
日本語を更に人工的に改革してより不完全なものにしてしまうよりも、日本語を取り入れた新たなフランス語と母語として強化された日本語という二重構造の方が志賀にはまだ良いように思えたのだと思います。(ⅸ) (xxxiv)
『国語問題』を
と志賀は締めくくっています(ⅹ) 。
しかしこのようなことは日本ではかつて起きた事がない事態です。外国の圧力に対し日本が国語や文化の改革のみで済んで来たことは、実に稀な事です。その事がさまざまな歪みを生んできたとしても、とても恵まれた環境です。(xxxvii)
志賀の考えは、植民地諸国の現状を外から眺めた身勝手な発想であると云わざるを得ません。その点で志賀の考えは、やはり愚かなものであると思います。
志賀直哉の眼差(芥川龍之介との比較)
ただもう一つ論じておきたい事があります。それは日本文化に対する志賀の認識についてです。それは志賀自身の内部へ向けられた眼差でもあり、それが志賀をこれまで述べてきた考えへと導いたと思うからです。それは随筆ではなく、本業の小説の中にのみ現れています。
志賀の短編『濁った頭』 [14](1911年)は
そんな人物の語りです。主人公・津田は長年、キリスト教の「肉慾の禁止」による自身の「性欲の圧迫」について悩んでいます。それ自体はありふれた事です。しかし彼の悩み方は異様です。
そして、ここで語られる肉慾には、のちに駆け落ちするお夏と最初に関係を結ぶときに
と言っている事から分かるように同性愛(xix)が含まれています。しかもかなり早い時期に男同士でそう云う関係を結ぶ事がわりと普通だった事を伺わせます。そんな津田は成り行きのままにお夏と駆け落ちし、まるで何かに取り憑かれたかのようにお夏を殺してしまします。
ここには現在の多くの日本人には想像するのが難しい失われた日本人の心性が、残酷な形で表れていると思います。
自身もキリスト教へ入信した経験のある志賀が、キリスト教(西欧文化)と日本文化との邂逅をこのような破綻した人物に託して描いた事は重要です。そこには芥川龍之介が『神神の微笑』 [15](1922年)の中で示したような日本の文化と歴史への信頼がありません。
『神神の微笑』の中では、日本の精霊と思しき老人が宣教師オルガンティノにこう語っています。
日本は外来の文化を変容して何でも日本文化の中に取り入れてしまうという訳です。これは何を取り入れても日本の同一性は保たれ揺らぐ事はないという一種の楽観論を必然的に孕んでいます。
このような認識は、それを肯定的に捉えるにせよ否定的に見るにせよ、その後も日本で繰り返されま。(山本七平など)(xxviii) ( xxxi)
しかし詳しくは触れませんが、芥川がここで描いたものは非常に細緻であり、他を寄せ付けません。しかも芥川は、4年前の代表作『蜘蛛の糸』 [16](1918年)で、その認識をすでに作品として実践していました。
『蜘蛛の糸』は、外国が舞台であるにも関わらず、一見すると日本の古典に基づいているような印象を受けます。
今では、ドイツ系アメリカ人の作家ポール・ケーラスの『因果の小車』 [17](鈴木大拙訳)所収の『蜘蛛の糸』が元であると考えられているようです(Wikipedia 2021.1.19. 蜘蛛の糸)。題名も同じですし、登場人物の名前も犍陀多と同じなので、おそらくそうなのでしょう。
しかし、蜘蛛の糸を葱に、釈迦を守り神の天使に置き換えると、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』 [18]に出てくるロシアの民話『一本の葱』とも内容はほとんど同じです。そして芥川の『蜘蛛の糸』の大まかなフレームは、ケールラスの『蜘蛛の糸』よりもむしろ『一本の葱』の方に似ているように思います。
ケーラスの『蜘蛛の糸』では
それに対し芥川の『蜘蛛の糸』は
これは『一本の葱』の前後の枠組み
というその外形を借りて変化させたもののように、私には思えます。
おそらくどちらの話も、芥川は知っていたのでしょう。もしかしたら他にも幾つかの話を参考にしているのかもしれません。
このように外国の話を入れ子にして取り入れながら、新しい日本の古典として違和感のない作品をつくった芥川の手腕は見事です。
と述べています。
おそらく晩年の『河童』 [19](1927年)に至るまで、彼の作品の多くは、外来文化の日本化の実践だったのではないかと思います(ⅺ) 。
そもそも芥川にとっては、日本語で小説を執筆すること自体が、外来文化(novel[小説])の日本化の実践だったのでしょう。
志賀は
と述べており、似た認識を持っていたようにも見えます。
しかし、芥川より9年早い1883年(明治16年)の生まれで、黒船来航の年に生まれた父を持ち、日清戦争〔1894年(明治27年)〕の時に11歳、日露戦争〔1904年(明治37年)〕直前に二十歳を迎え、混乱と動乱の連続であった頃の明治人気質を、まだ色濃く残していた志賀には、物事はそう簡単に割り切れるものではなかった。
西欧列強の力を背景とする西欧文化の受容と軋轢。その裏にある酷な現実を、志賀は見ていました(ⅻ) 。そのようなものは、芥川の初期の作品からは抜け落ちています。
『蜘蛛の糸』の7年前(『神神の微笑』の11年前)に書かれた『濁った頭』(1911年)は期せずして、芥川への批判になっていると思います。
そのような志賀が、外国の作品を元に作ったのが『クローディアスの日記』 [14](1912年)です。
この作品はシェイクスピアの『ハムレット』 [21]の中で、王子ハムレットに復讐される叔父クラウディアスの日記という体裁を取っています。『ハムレット』は
なのですが
志賀の作品では
これが自分の夢の中であれば
柄谷行人が『日本近代文学の起源』[64]の中で云うように
しかし彼は
これはなんとも
です。このような例を他に聞いた事がありません。
そしてこの小説は、太宰治の『新ハムレット』 [22]のようなふざけたところは微塵もなく、西欧(デンマーク)の物語として真に迫って来ます。これは芥川の『蜘蛛の糸』が日本の物語として違和感がないのと、好対象を成しています。
しかしここで描かれたクローディアスの心性は
志賀が
と言っているように、日本人(志賀自身)のものを元にしています。
それを西欧にまで敷衍して、普遍化した。この作品が書かれた頃までは、西欧も日本とそれほど違わなかったと、志賀は考えたのだと思います。
そしてこの小説でも志賀は、現実を割り切れない複雑なものとして描いています。クローディアスを弁明したかのようなこの作品を通して見ると、復讐心に燃える若きハムレットは、新王クローディアスに残る古い心性と、あたかも内通しているかのように思えて来ます。原作の父王の幽霊は、その媒介者の役割を果たしているように見えます。
『ハムレット』の作者シェイクスピアが生きたのは、ルネサンスと宗教改革があり、社会が大きく揺れ動いた時代です。この混乱を経て、さらに市民革命と云う動乱を抜け、長い年月をかけて西欧は近代化を体現していきます。その過程は欧州でも一様ではなく、それぞれの地域がそれを受け止め内面化していきました。長い歩みを経た為に見えにくくなっているとしても、多くの西欧諸国においても、それは非西欧諸国の近代化と同じく、文化を変形しつつ受容する過程でした。
実際にシェイクスピアの祖国イギリスでは、1543年に独自の英国国教会の成立とそこでの改革をきっかけに、大陸よりプロテスタントの運動が急速に流入し、紆余曲折を経て、その後の清教徒(ピューリタン)の運動、更には清教徒革命(1642〜1649年)という動乱へと繋がっていきます (参考:『物語 イギリスの歴史』上・下 [23])。
『ハムレット』の舞台デンマークでも、ドイツから伝わったプロテスタントのルター派が席巻します。(Wikipedia.2021.1.19. デンマークの歴史、 デンマーク=ノルウェーの宗教改革)。
『クローディアスの日記』を読むと、ハムレットとクローディアスの悲劇は、そのような外来文化の受容に伴う軋轢の象徴のように思えてきます。
芥川がアジアの辺縁としての日本を舞台にしたのと、『ハムレット』と『クラウディアスの日記』の舞台が、欧州の辺縁デンマークであるのは、興味深い符合です。シェイクスピアが当時の教養であったラテン語ではなく、当時の一地方言語であった英語で劇を書いたということも、とても示唆的だと思います(xiii) 。
『クローディアスの日記』も期せずして、日本の独自性を体現した芥川の作品への回答になっていると思います。
この志賀の二作品で描かれた心性は、現代人の多くから見れば異様に写るのではないかと思います。
それは丸山眞男なら、悪しき日本の封建遺制・前近代制と呼ぶかもしれない。日本の古い心性を再評価したように見える吉本隆明の『共同幻想論』 [24]にも、このようなものは含まれないと思います。
赤松啓介の『夜這いの民俗学』 [25]で描かれたようなものは再評価されても、これは無理だと思います。
大方の理解を超えているだけでなく、そもそも日本の内部をいくら精密に調べても、こういったものはおそらく出てこない。それは外部から来た異質なもの(キリスト教)との先鋭化した葛藤を通して、小説という形でこそ露呈して来たものだと思います。
近代化へと向かう社会で、このような本源的ともいえる心性を保つことには、困難が伴います。それは時に悲惨な結末を呼びよせます。『濁った頭』の主人公が、精神を病んで殺人を犯し、クローディアスが甥に殺されたように。
志賀自身も、キリスト教を受容し、棄教する中で、危機に直面したのではないかと思います(xiv) 。しかし志賀は破綻する事はありませんでした。そして自身の古い心性を、完全に失うこともなかったのだと思います。
志賀自身のこのような経験は、芥川とは違ったオプティミズムを志賀にもたらし、それが日本の国語をフランス語にしても良いという認識に繋がっていったのだと思います。
つまり、日本の国語をフランス語にすれば、多くの困難を伴い、多くの悲惨な結末を呼び寄せるだろう。しかしそれでも良い。それを乗り越える者は(自分のように)きっとある。そしてそこにこそ、日本人の心性は生き残るのだ、という訳です。
それが
という言葉にもつながっているのだと思います。(xxxii)
志賀が失わなかった、このような本源的心性は、国学のそれとは、ずれています。
それは志賀が作品に描いた心性が歪んだ形で表れているからと云うだけでなく、そもそも本居宣長 (参考: [26]) の「もののあはれ」や「やまとこころ」のように名付けられるものではないからです。名付けてしまうと、その瞬間に違うものになってしまう、そんなものだと思います。
志賀の認識は、本居宣長を
と痛烈に批判した上田秋成に近いかも知れません。
迷信を嫌い、神仏に手を合わせることのなかった(『志賀直哉』阿川弘之 [10])という志賀の描いた心性は
と論じた、上田秋成のいう「狐(狐憑)」 [29]のようなものに思えます。それは実証的に語れるものではなく、だからこそ志賀はそれを作品として描いた。
そのような心性は、志賀がシェイクスピアの作品を題に取り、上田秋成が中国の古典を元に物語を描いたように(『雨月物語』) [30]、決して日本固有のものでなく、普遍的なものです。
しかし西欧科学文明の広がりの元では、どこでも滅びゆく運命にあります。
『濁った頭』に連なる志賀の作品について、芥川は述べています。
まことに見事な分析です。(xviii)
しかし芥川はこのように志賀の作品を理解できても、それを自身では描けなかった。
最晩年の『点鬼簿』 [32]『歯車』 [33]『或阿呆の一生』 [34]などは「人々の心裡のうちに、隠れた」神秘を描こうとした芥川なりの足掻きのなのかもしれませんが、志賀の作品の不気味さには及びません。『歯車』の主人公がどんなに怪しい影に誘われるようであっても、そこには自我のようなものが感じられ、その自我が混乱しているように読めます。それは断片的な『或阿呆の一生』でもそうです。
『点鬼簿』で
について述べ、その母と亡くなった姉が混じり合った姿で自分を見守っていると感じ
それを
と語る芥川に、それほど奇異な印象は受けません。それは同様の経験がなくとも、想像の範囲内です。
それに対して、志賀の一連の作品の主人公には、自我のようなものがおよそ感じられません。ただ何かに取り憑かれ、強いられている切迫感があるだけです。それが「常人に迫つてくる神秘」を感じさせるのだと思います。(xxxviii)
と自殺した作家の全集の推薦文に平然と書く志賀の率直さは異様です。
それに比して芥川は、あくまでも、客観的・歴史的分析に片足を残したままで、彼の作品もその日本文化史の理論の実践としての枠を、超える事はなかったと思います。
志賀直哉と三島由紀夫
さて、フランス語(国際語)を強制的に導入して、あとは自然に任せるというのは、それがかえって日本語と日本人の心性を強化する可能性があるとしても、なんとも乱暴な方法です。しかし、国語の改革によって日本語を守った日本で、その後、志賀が描いたような心性が、急激に失われていった事は確かです。
それは三島由紀夫が『文化防衛論』 [35]を書いた頃(初出1968年)には、確実性を帯びていました。
三島の
という認識と志賀のオプティミズムは相補的なものだと思います。
大正時代に活躍した志賀は、三島がどう考えようとも、三島が批判した
とは無縁です。(xv)
自衛隊駐屯地での自決という三島の壮絶な死と志賀の二作品に現れた悲劇とは底流で通じていると、私は感じます。
志賀が「フランス語を日本の国語にする」事を本気で考えていて、それでも日本文化は生き残ると考えていたことと
三島が
文化を防衛しようと本気で考えていたこととは、うらはらで、捩れながら繋がっているように思えます。
前述したように、志賀は『国語問題』で
て考えなくてはいけないと言い
『メートル法廃止運動についての返事』でも
と言っていて、とても民族主義的で不思議な一面があります。
また天皇については
と言っています。
何やら三島と通じるものを感じます。(xxi)
しかし元来皇室に関心のなかった志賀が、こういう風に考えるようになったのは、二・二六事件に際して、断固とした決断をした天皇への尊敬心からだと、阿川弘之は述べています。(『志賀直哉』 [10])
一方、三島は二・二六事件を元に『英霊の声』『憂国』『十日の菊』3作品 [38]を書きました。一見すると三島は、二・二六事件を起こした陸軍将校たちの側に立っているように見えます。しかし、この3作品は、それぞれが全く違う観点から、違う調子で描かれていて、単純ではありません。
とにかく二・二六事件が、この2人の作家に大きな痕跡を残したことだけは確かです。
そして三島には、志賀が『特攻隊再教育』[12]の中で気に掛けている
という様相があります。
という特攻隊員に対する志賀の言葉は、戦後社会への嫌悪感を露わにした、その後の三島の姿を彷彿とさせます。
志賀の闘いも三島のそれも、どちらも敗北を覚悟した上での、ぎりぎりのものでした。
三島の『文化防衛論』初出の翌年、三島自決の前年に書かれた志賀の『ナイルの水の一滴』 [39]は、自身が敗北した後も生き続けた志賀からの三島へ向けた言葉のように、私には読めてしまいます。
長くはないので、全文を下記に引用します。
志賀を三島と結ぶ観点から捉えると、芥川の認識は対極にあります。しかしそれは志賀と三島を結ぶ線上からそう見えるのであって、三人の立場は、ちょうど三角形の頂点のような関係にあります。(図1)
第二次世界大戦後の6年8ヶ月弱を除いて他国に支配されるという事がなく、外国の影響が文化的なものに留まって来た日本の歴史が、芥川に代表される「日本は何でも取り入れて日本化する」というポジティブな視点を可能にし、それがあってこそ、志賀や三島のような大胆な主張がありうるのだと思います。
そういう意味では、3者は補完的であると云えます。
その中で芥川の立場は、私に本居宣長を想起させます。宣長の「もののあはれ」や「やまとこころ」も、本来はポジティブに名付けられるようなものではないと思うからです。宣長も本当は、上田秋成のいう「狐」が跋扈する世を生きていた筈です (xvi) 。芥川も、彼が描いた以上に、その理知を超えた「神秘」の中を生きていた。
芥川の頃よりも、更に「神秘」が「心裡」と「怪談」の中に閉じ込められた現在の日本においても、本当の「狐」は「心裡」と「怪談」の狭間にいるのだと思います。それは神秘主義が、繰り返し復活してくる基になっていると思います。(図2)
しかし神秘主義は「心裡」と「怪談」を補完するものでしかありません。本当の姿は志賀のように、異質なものとの軋轢の中に垣間見えるだけだと思います。(xxvi)
志賀直哉と有島武郎の多様性
志賀直哉は、白樺派の作家ばかりではなく多くの作家と交流がありました。三島が敬愛した谷崎潤一郎とは懇意でしたし、プロレタリア文学の小林多喜二は、自身の小説について志賀に批評を求め、志賀は手紙で答えています。
官憲に監視される身であった小林は
奈良に志賀を訪ねています。
志賀というと私小説という枠組みで切り取られ、わりと単一の視点で描かれた小説ばかりであると捉えられがちですが、志賀の柔軟性を考えると、その小説の多くは長大な物語の断片として捉えられるべきではないかと思います。
その視野には『クローディアスの日記』で描かれたように、日本以外の場所も含まれます。と云ってもそれはフランスの作家ゾラの代表作「居酒屋」と「ナナ」を含む長編の連作ルーゴン=マッカール叢書とは違い、ほとんどが短編で、内容に統一のテーマや関連は見られません。
志賀の作品群を叢書として捉えるとしても、それは日本の詩歌の伝統に基づいているという感じがします。一つ一つの詩歌は短くとも、句集や歌集を読み通した時に一つのまとまりを確かに感じる、そういった手応えに近いのではないかと思います(xvii) 。
それでも志賀の作品をそのような多様なものの交錯として捉えると
有島武郎の
という感性と志賀のそれとが近づいて見えます。
白樺派で志賀より5つ年長の有島は志賀と同様、キリスト教との軋轢を先鋭化させた数少ない作家の一人でした。
とはいえ、有島と志賀の作品は異質です。断片を繋ぎ合わせたような志賀の長編『暗夜行路』 [41]に比べて、有島の『或る女』 [42] [43]と『カインの末裔』 [44]は作中人物がどんどん勝手に動き出していくような大胆な作品です。それを書きかつ『惜しみなく愛は奪う』のような哲学書と呼べるものまで書いた有島の多彩さは、志賀にはないものです。
有島には前述した志賀・三島・芥川の補完的な関係を揺るがす湧き上がる力のようなものを感じます。(xxv)
1923年(大正12年)に45歳で縊死した有島がもし生きていたら、戦後の国語と日本文化についての議論も違った展開があったかもしれません。
最後に
志賀直哉を中心に据えると、かつての日本と日本の作家の諸相が浮き上がって来ます。稀有な資質を持った志賀は、多様で豊かな作家達の中で、その連関の結節点のような位置にいたのだと思います。志賀を批判した太宰治のような作家(『如是我聞』 [45])も、反発という形で同じ環の中にいたと云えます。
そんな日本文学の要の位置にいた志賀の『国語問題』を単なる愚かな暴言と捉えるべきではありません。むしろ日本の社会を読み解く上での貴重なテキストの1つとして捉え直して行くべきであると思います。拙論はその1つの試みです。
* 本論の引用と要約には、一部今日から見れば不適切な表現がありますが、作品が書かれた時代背景を表しているもので、引用として不可欠な部分であると考え、そのままの表現で記載しました。どうぞご理解をお願い致します。
改訂歴
2022.1.25.本文と注に一部訂正加筆、2022.1.27.引用文献追加
2022.5.21. 本文と注に一部訂正加筆・引用文献追加
2022.6.7. 注ⅺに加筆
2022.7.12.本文若干の訂正・改訂歴項目に追加・注xviii追加
2023.4.13.注 xixを追加。
2023.4.26.本文に江藤淳「近代以前」からの引用文を加筆。
2023.12.16.注xxを追加
2023.12.17.注xvに後半部、柄谷行人の書籍からの引用を用いた箇所を追加
注xxiを追加
2023.12.30. 注xxiiを追加
2023.12.31.注xiiiを追加
2024.1.3.注xxivを追加
2024.1.4.注xxvを追加
2024.1.4.注xxviを追加
2024.1.5注viに「ソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート」(東京大学出版会)からの引用を追加
2024.1.6.注xxviiを追加とそれに伴う若干の訂正(書籍の表記方法など)
2024.1.11.注xxviiiを追加
2024.1.16.注xxixとxxxとxxxiとxxxiiを追加
2024.1.17.注xxxiiiを追加
2024.1.20.注xxxivを追加
2024.1.21.注xxxivに*2を追加→削除
2024.2.4.注xxxv〜xxxviiを追加
2024.2.12.注xxxviiiを追加。注xiに加筆、またもとの注xiにあった文章の一部を本文中に挿入。(柄谷行人の『日本精神分析』[48]からの引用を含む)
2024.2.17.注xxxvに追記。
今までのところ本論の大意に変更はありません。
注 i 〜 xxxviii
ⅰ イロニーもしくはアイロニー(英:irony, 独: Ironie, 仏: ironie)は、皮肉と訳されますが、本意は「表面的な立ち振る舞いによって本質を隠すこと、無知の状態を演じること」(Wikipedia 2021.1.19.アイロニー)であり、反語、逆説などの意味も含み、ほのめかすという語感もあります。また、ソクラテスが真理を探求する為に用いた、知っていることを知らぬふりをして議論をする「哲学的イロニー」はヘーゲル、キルケゴールに批判的に取り上げられたのをはじめ、現代に至るまで多くの哲学者に取り上げられた(ポール・ド・マンの「アイロニーの概念」 [53]など)長い歴史があり、それらによる豊富なイメージの広がりを持ちます。
ⅱ 例えば日本語の全面的ローマ字化を主張した土岐善麿はG H Qのローマ字化の動きを歓迎し、『國語と國字問題』 [49]を書きましたが、その冒頭を
と云うところから始めています。そして日本語の
とし、カナ文字の発明から、前島密の漢字廃止論、南部義籌と西周のローマ字論へと必然の流れであるかのように描いて、ローマ字を日本語の歴史の中に正統に位置付けようとしています。これは日本語のローマ字化を正当化する試みなのはもちろんですが、同時にナショナリスティックなものだと思います。前島・南部・西の三人の目的が、日本の国力を高め、日本の独立を守ることにあったのはその論旨より明らかです。特に南部については、明白に国粋主義的であることを、土岐も認めています [49]。
ただそれが西によって、真に開明的なものになったというG H Qが喜びそうな論述になっています。土岐はこの著書の中に、米国対日教育使節団の報告書の国語改革に関する箇所を全て載せて
と賛辞を送っています。しかしこれは賛辞であると同時に、今後も変わらず “指図せずに日本人に任せるように” という牽制の意味もあったのではないかと思います。
土岐の国語のローマ字化を正当化しようとする歴史の中に、賀茂真淵と本居宣長への言及がないのが気になる所ではあります。もしかすると、国学を取り上げることが、国粋主義を警戒するG H Qの意向に沿わないと判断したのかもしれません。
ⅲ 志賀はこの座談会で、アルファベットが、26字であることの利点を強調しています。それであれば尚の事、英語で構わない筈です。ローマ字については、長年の普及運動があったにも関わらず広まらないのは
と、志賀は否定的ですが、英語については述べていません。
さらに志賀は
とメートル法をアルファベットに類比させています。
この類比は、『国語問題』と谷崎潤一郎との対談(『文藝放談』 [2])でも述べられていて、一貫しています。メートル法がフランスによって生み出され、広まった事を考えれば、そのようなフランスの国際性(アメリカに対抗できる力)を念頭に置いているのだと思います。
フランスは、ドイツ占領時には、分割統治の一角を占めましたが、日本の分割統治が画策された時には、そこから外れています。
そこまでの事実は知らなくとも、フランスを日本の占領政策に強く導き入れることは、ポツダム会談とポツダム宣言に関わったアメリカ・イギリス・ソ連・中国とは違う軸を持ち込むことであったろうことは、想像できたのではないかと思います。
しかし、11年後の座談会で、このような事を強調しても仕方がない事は確かです。
これは、辰野隆に
と言われて、思わず出た発言だと思われます。
と話し始め、26字の利点のくだりの後
と残念そうに言っています。
ⅳ 対談(『内村鑑三その他』 [2])では
という表現も見られますが、その後でやはり国語と言っていて、主意はやはり国語なのだと思います。
ⅴ これが志賀独特のアイロニーである事は私には疑い得ないのですが、多くの論者は、志賀の主張を真正面から捉えるばかりなので不思議です。
それは
という丸谷才一から
内容については(フランス語で語ったとしても)支離滅裂だろうとしながらも
とする鈴木孝夫
と切り捨てる『國語問題論争史』 [61] [60]の土屋道雄・福田恆存
このような主張をする志賀を「小説の神様」とした人々への苛立ちを露わにする大野晋(『日本語練習帳』 [56])まで、志賀の豪胆さに比べると、皆とても小心な生真面目さを示しています。
私の知る限りでは、蓮實重彦の
と云う言葉のみが、一面で芯をついています。
蓮實の云う「『制度』としての『日本語』と国家としての『日本』とに対する苛立ち」は、確かに志賀に内在していたと思います。
しかし、敗戦直後のこの時期に、なぜ志賀があえてこのような発言をしたのかを、それだけで説明するのは無理があります。
そこには G H Q による支配下という状況を鑑みる事が必要だと思います。
そしてその場合、加藤三重子が『志賀直哉の「国語問題」の政治学』 [58]で示唆しているように、アメリカに対する密かな反発から、フランス語を選んだと云うよりも、より積極的な抵抗として志賀は選択したのだと、私は考えます。
*追記: 2022.2.25
加藤三重子の他に、当時の状況を鑑みた論考として
ことを強調した甲斐睦郎の『終戦後直後の国語国字問題』[66] があります。まともに志賀の『国語問題』を扱ったものとして大変貴重なものですが、私は拙論を書いた当初、この著書の事を愚かにも知らなかった。
読み通してみて大いに参考になったが、拙論に大きな変更を加える必要は感じなかった。
ただ一つだけ重要な指摘があった。それは志賀が対談『浅春放談』[2]の中で
と日本語について言っている事です。
このような事を志賀の考える国語批判の中心とするなら、日本語そのものを否定したと取られても仕方がない。
志賀はこの後
と言っています。これをどう理解したら良いか。
これは似通った主張をした対談『内村鑑三その他』の
という志賀の言葉から押して、『国語問題』がまともに相手にされないことに苛立った放言という側面が強いように、私は思います。
志賀にも混乱した部分があったのかもしれませんが、この発言だけで「主格なしで文章の書ける国語」である事が志賀の国語批判の主題の1つであるとは、私には思えない。
日本語が「主格なしで文章の書ける国語」である事は自明のことであり、志賀のような老練な作家が今更このような事を強調してみせるのは、その後の「突飛な」意見へ繋げるための方便ではないかと思います。
ⅵ ソシュールの『一般言語学講義』は、ソシュールの講義そのものではなく、学生の講義ノートから再構成したもので、その後のさまざまな資料の発見により、新たな研究が進んでいます。
しかしソシュールの手稿や新たな学生の講義ノートがジュネーブ公共大学図書館で収集され始めたのは1954年の事であり、ここでは志賀が『国語問題』を書く前に見聞きした可能性を考え、一般言語学講義初版のものを選びました。
様々な資料をもとにした各著書から、本文で引用したものと完全に同じ箇所を取り出すのは難しいですが、類似性のある記述の一例を上げると
「ソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート」(東京大学出版会)では下記のように記されています。
引用文献: 「ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート」
2007.3.27.初版、2008.3.18.第2刷
著者: フェルナンド・ド・ソシュール
訳者: 影浦峡・田中久美子
発行所: 財団法人 東京大学出版会
ⅶ この発言について、
ものと加藤三重子は述べています。(『志賀直哉の「国語問題」の政治学』 [58])
加藤三重子も取り上げているこの前段で志賀は
とぶっきらぼうに述べているので、そう取られても仕方はありません。しかしこれも志賀のアイロニーなのであって、むしろ「台湾や朝鮮で、日本も日本語を公用語として強制したではないか、今更なにを驚くのだ」という事を含意しているのだと、私は思います。技術的なことは分からないのに、困難はないと思うなどと云うのも、反語的表現であると私には取れます。しかし後述したように、外国語の強制に対する無理解が志賀にあることも確かです。
ⅷ アイデンティティの拠り所としての母語の可能性について、例えば『言語学と植民地主義−ことば喰い小論−』[54]のルイ=ジャン・カルヴェの
という力強い言葉を思い起こす事ができます。
しかしこれは実際に植民地化され、外国語を強制された人々の必死の抵抗の姿であり、日本のようにそのような強制が起こらなかった国の想像の中で可能性として考えられるようなものとはやはり違います。
それはガンジーの自伝にある次のような言葉と相まってこそ、意味を持つものであることを忘れてはならないでしょう。
ⅸ 加藤三重子は『志賀直哉の「国語問題」の政治学』 [58]の中で志賀が自分は日本語を使い続けると対談(『文芸放談』 [2])で言っていることをもって、志賀がフランス語/日本語の二層構造を想定しているではなかと論じています。私の場合の二重構造は『国語問題』で志賀が終始「日本の国語」を問題としていることから、志賀が母語としての日本語の使用を全否定したわけではないと推論したに過ぎません。
外国語と母語が併存した実例としてはフィリピンが考えられます。
フィリピンにおける教授語としての英語の導入と母語との関連と歴史については岡田泰平著『「恩恵の論理」と植民地−アメリカ植民地期の教育とその遺制−』が詳しい。 [52]
ⅹ こうした文脈での「日本人の血を信頼し」という言葉は、仮に日本語が完全に滅んでも、それでも日本人の血があれば、というふうにも読め、一種の恐ろしさも感じます。
しかし対談では
と言っていて、より積極的な混淆言語を想定しているようにも読め、
志賀がどのようなものを想定していたのか、はっきりしません。
というような発言は、フランス語の構造が日本語よりも合理的であると理解していたようにも取れます。志賀自身の考えにも混乱したところがあり、そこにはフランス語の構造が日本語よりも合理的であるというような、西欧中心主義的な考えも若干混じり合っていたのかもしれません。
しかしこの対談では
と言っていて、『国語問題』がまともに相手にされないことに苛立った放言という側面もあるように思います。
ⅺ 柄谷行人は『日本精神分析』の中で、『神神の微笑』[15]を取り上げて、日本の文化受容の歴史について、詳細な分析と考察をしています。 [48]
その上で柄谷行人は、キリシタンの弾圧と背教を描いた「おぎん」という芥川の作品に触れながら、
と問いかけています。
そして
と述べ、更に
と大正時代を規定した上で
と述べています。
柄谷行人のこの論に則するならば、芥川龍之介は志賀直哉とは違った意味で、暴力を感受していたのかもしれない。
ⅻ 明治政府は、当初キリスト教を弾圧しました。しかし西欧列強の圧力により、信教の自由を認めます。キリスト教(プロテスタント)が日本で広まるのは、明治20年頃からで、信者の中心は、かつての幕臣の師弟であったといいます。(『日本近代文学の出発』平岡敏夫 [50])
志賀直哉の師・内村鑑三もその一人です。明治維新という暴力と西欧列強の強大な軍事力の狭間で、キリスト教は足場を失った者たち(幕臣の師弟)の拠り所になった。
ナイジェリアの作家チアヌ・アチェべが『崩れゆく絆』の後半で描いたキリスト教の二重性
と部分的には似た構図が日本にもあったのかもしれません。
しかし、日本で最初にキリスト教に救いを求めたのは、アチェべが描いたような
よりも、かつての支配層(幕臣)の師弟でした。そして日本は植民地化されることはなかった。
られるという過酷な状況は、日本にはなかった。キリスト教の広がりは限定的でした。信者からも棄教する者が続出します。キリスト教を堅持し続けた内村鑑三とその教えとの葛藤を先鋭化させた志賀直哉のような人は、どちらも日本では稀でした。その志賀の特異性が、独特の考察を可能にしたと云えます。
尚、日本人とキリスト教の関係については、柄谷行人が『日本近代文学の起源』[64]の「告白という制度」で詳しく論考を加えている。志賀の『濁った頭』に連なる作品群についても、そこで触れられている。この点での拙論の発想は、多く柄谷氏の考察に触発されたものである。
xiii ハムレットは、北欧の伝説が元となったと云われ、それはシェイクスピアがハムレットを書いたとされる1600年前後を遥かに遡ります(『ハムレット』(福田恆存訳)所収「解題」福田恆存 [21])。しかし、志賀は、シェイクスピアが自分の時代の混乱を託した物語として、ハムレットを読んだのだと思います。
xiv 志賀の『内村鑑三先生の憶い出 [39]』を読むと、『濁った頭』の内容の一部は、志賀自身の経験に基づいている事がわかります。
xv 三島由紀夫は
と言っている。
『濁った頭』や『クローディアスの日記』のような異様な作品を書いた志賀が、このような「知識人」に該当するとは、私には思えません。
『行動学入門』[68]所収の「革命哲学としての陽明学」の中で三島が大正教養主義に触れた箇所で、武者小路実篤と志賀直哉を並べているのはは不当なことに思えます。武者小路と志賀は共に白樺派を代表する人物ではありますが、全く資質の異なる作家であると思います。
ただ、柄谷行人が「双系性をめぐって」の中で
と述べている通り、志賀の作品もまた大正という時代を反映しているとはいえるのかもしれない。
そして、柄谷行人が
と述べているように、大正教養主義の元祖の1人である西田幾多郎にも、三島の云う
とは異質な側面があったのかもしれない。
引用文献: 「〈戦前〉の思考」柄谷行人
1994.2.1.第1刷
1994年4.10.第4刷
発行所: 株式会社 文藝春秋
xvi この狐が跋扈する世は、あるいは柄谷行人が『反文学論』[65] の第6章「法について」で富岡多惠子の小説『坂の上の闇』[67]に言及した箇所で
と述べた時の「闇」に触れる世と云えるかもしれない。
xvii 志賀の短編の作風は様々ですが、それぞれのフレームは異なっても、正岡子規と高浜虚子に始まる近代俳句と写生文に、どれも近いように思います。
これは、江藤淳が『リアリズムの源流』 [51]の中で分析したように、近代日本のリアリズムの源流の一つが写生文に基づいていて
志賀が虚子と
とするなら、当然のことと云えます。
菊池寛が
と指摘しているのも、志賀が、国木田独歩に端を発する日本の自然主義派(島崎藤村・田山花袋など)のリアリズムとは別の、写生文の流れを汲んでいる故であろうと思います。
そして、芥川龍之介が『文芸的な、あまりに文芸的な』の中で、
と云った「『話』らしい話のない小説」の代表格として志賀をあげているのは、もっともなことだと思います。
xviii 芥川龍之介はここで、ハインリッヒ・ハイネの「流刑の神々・精霊物語」を念頭に置いているものと思われます。
「流刑の神々・精霊物語」ハインリッヒ・ハイネ小澤俊夫訳
岩波書店 1980.2.28.第1刷発行、2019.5.24.第16刷発行
原典: GÖTTER IM EXIL 1853
ELEMENTARGEISTER 1935-36
Heinrich Heine
xix 志賀直哉の「濁った頭」の中で述べられた同性愛は現代のものとはだいぶ違っているように感じられます。それはまるで異性愛へと向かう一段階であるかのように読めます。
三橋順子は著書『歴史の中の多様な「性」ー日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』の中で
ことを指摘しています。
それはこの小説の主人公のように、女色へと容易に結びつくものだった。
三橋順子によれば
り、同著を元に僕なりに要約すると、それは
明治以降こうした男色文化は抑圧されるが、男子校文化の中で、根強く残っていたことをこの本は様々な事例を元に指摘しています。
志賀直哉との関連では、里見弴が「志賀君との交友録」『銀語録』相模書房(1938年)の中で志賀へと向けた言葉を紹介しています。
志賀直哉が、このような男色文化が色濃く残る社会で、この小説を書いたのだということが、この本を読むと良くわかります。
同著で三橋は前近代の日本では
と述べています。重要な指摘です。
志賀直哉の「濁つた頭」で述べられた男性同士の性愛もおそらく男色の流れを汲むもと思われるので、男性同性愛とするよりは男色とする方が正しいのかもしれない。
引用文献:
『歴史の中の多様な「性」ー日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』三橋順子
2022.7.14.第1刷発行
岩波書店
xx 「戦後日本の国語教育 二松學舎に学んだ沖山光の軌跡」に戦後の昭和
の編集責任者、
の次のような言葉が紹介されています。
敗戦国日本の知識人層の心情をよく表している言葉ではないかと思います。
同著の P94 注7 に上記の発言の引用元が記されています。下記の通りです。
引用文献: 「戦後日本の国語教育 二松學舎に学んだ沖山光の軌跡」
2018年3月31日 初版第1刷発行
編者 沖山光研究会 発行者 村松泰子
発行所 東京学芸大学出版社
xxi 三島由紀夫を志賀直哉と結ぶ線で理解しようとする時、その補助となるのは坂口安吾ではないかと思います。
三島は戦後の無頼派と呼ばれた作家達の中で、太宰治よりも坂口安吾を高く評価していました。
坂口安吾全集の推薦文で三島は
と述べた後、
と述べています。
坂口安吾は何をどのように洞察し見透かしたのだろうか?
有名な「堕落論」の中で坂口安吾は述べています。
だからこそ
のであり、その必要によって生まれた武士道は
これが三島由紀夫が拘った武士道に関する坂口安吾の既定だとすると、
もう一つの三島の思想の鍵である天皇についてはどうだろうか?
「天皇陛下にさゝぐる言葉」の中で坂口安吾は述べています。
このような武士道と天皇に関する坂口安吾の洞察を三島由紀夫は受け入れていたのだろうか?
受け入れていたと考えると、三島の武士道と天皇に関する発言と思想も、だいぶ違って響いて来ます。
それは志賀直哉の
と云う朴訥な認識とも更に近づいて感じられて来ます。
引用文献:
① 決定版三島由紀夫全集34
著者 三島由紀夫
発行 2003.9.10. 2刷2012.10.5.
発行所 株式会社新潮社
所収 無題(「坂口安吾全集」推薦文)
〈初出〉坂口安吾全集 内容見本・冬樹社・昭和42年11月
〈初刊〉三島由紀夫全集33・新潮社・昭和51年1月
②「堕落論」青空文庫
2006年1月11日作成 2012年5月19日修正
底本:「坂口安吾全集14」ちくま文庫、筑摩書房1990(平成2)年6月26日第1刷発行
底本の親本:「堕落論」銀座出版社 1947(昭和22)年6月25日発行
初出:「新潮 第四十三巻第四号」1946(昭和21)年4月1日発行
③「天皇陛下にさゝぐる言葉」
青空文庫 2007年2月18日作成
底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房 1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「風報 第二巻第一号」
1948(昭和23)年1月5日発行
初出:「風報 第二巻第一号」1948(昭和23)年1月5日発行
xxii 人工言語エスペラントの創案者ザメンホフは、エスペラントを完璧なものと思っていた訳ではなく、それが変化していく事を全面的に否定してはいません。しかしザメンホフが認める変化はとても限定的です。
エスペラントの改造案による混乱とエスペラント運動の分裂の危機のあと、以前の著作から編纂された「エスペラントの基礎」への序文(1905年)のなかでザメンホフは
国際語の順調な前進のためには
そしてその上で
とその基礎への変更の可能性を、限定的にだけ認めています。
そしてエスペラントについて
と述べています。
しかし「自然の道」にしたがったときに、その変化が言語の基礎にまで及ばないという保証はないのではないだろうか?拙論で引用したソシュールの指摘はその事を示しているように私には思われる。
引用文献: 「国際共通語の思想 エスペラント創始者ザメンホフ論説集」L.L.ザメンホフ[著・述]水野義明[編集・訳]
1997年6月10日第1刷発行
著者: Lazaro Ludviko Zamenhof
訳者: 水野義明
発行所:株式会社 新泉社
参考文献:: 「ザメンホフ |世界共通語《エスペラントを創った医師の物語」
2005年1月24日 第1刷
著者: 小林司
発行所: 株式会社 原書房
xiii 日本の降伏文書調印以後にGHQにより占領された地域においては、ポツダム宣言に基づく間接統治が大枠では決まっていたとはいえ、占領初期には混乱もあり、1945年9月2日に示され、日本側のGHQとの折衝もあり、公表される事なく終わった布告第一号の中には
と云うような文言も確かにあった
これは
と始まり
第一条で
としているように
一時的にせよ間接統治ではなく、GHQによる直接的な軍政を敷く事を前提としており、その事に主眼がある。
第五条はそれに付随するもので、拙論で取り上げた「外国語が日本の国語になる」と云うこととは少し意味合いが異なるし、すぐ取り下げたところから見ても、本文中でも論じたように、英語を日本の公用語にすると云うような政策が実施された可能性は殆どなかったものと思われる。
とはいえ、もしこの布告が実際に出されていたら、日本国内に大きな混乱をもたらしていたであろう事は想像に難くない。
引用文献: GHQ
1983年6月20日第1刷発行
著者: 竹前栄治
発行所: 株式会社 岩波書店
xxiv 作家の津原泰水氏は2018.12.6.にTwitter(現X)上で
と述べた後
とコメントしています。
前半部分はともかく、後半部の志賀直哉の「国語問題」に関する考えは、拙論と同じではないが、それを一つの作戦として捉えているという点で、類似した方向性がある。
拙論を書くにあたっては、その動機として、志賀の「国語問題」について、それを作戦として捉える見方が全く見受けられない事に対する違和感が強くあった。
津原泰水氏の発言を知らなかった事は全く私の不覚の致すところです。
本日(2024.1.3.)この発言を見つけた時、私は嬉しくなり、後先考えずに、あわててコメントを返してしまった。しかし、津原泰水が2022.10.2.に亡くなっている事をすぐに知った。
ご冥福をお祈り致します。
津原泰水氏Twitter(現X)
https://x.com/tsuharayasumi?s=21
戦後のローマ字化政策の流れについては注xxviiに引用を元にまとめました。
xxv 柄谷行人は「階級について」の中で
と述べた後、有島武郎について
と述べ、志賀直哉については
とし、志賀と有島について
と2人の親近性を示唆しつつも
後段で有島武郎について
と有島の特異性を強調している。
これはとても納得のいく分析であると思う。
引用文献: 新版 夏目漱石集成
2017.11.16.第1刷発行
著者: 柄谷行人
発行所: 株式会社 岩波書店
引用した本著所収の「階級について」の初出は「文体」1977年秋創刊号
xxvi 芥川龍之介の云う
神秘を描こうとすると、大体において、それを誘き出すか(怪談)、分析するか(心理学)の主に2つの方法に収束していくように思う。
それは芥川が述べたように
のどちらかか、その混合になりがちである。
優れた作品でも、この2つの方法を避ける事は難しい。それは近年の作品を見てもわかる。
吾峠呼世晴の「鬼滅の刃」や諫山創の「進撃の巨人」のような優れたヒット作が、怪談と多様な心理学的・精神医学的カテゴリー(*1)との混淆である事は、一見して明らかであるように、私には思われる。
両作品は、驚くほどさまざまな学術的知識の宝庫でもある。
それは私に泉鏡花の「高野聖」や芥川龍之介の「河童」を想起させる。
これらは全て
とか
といって片付けられるようなものではなく、たいへん優秀な作品であるし、エンターテイメントとして楽しめる。
しかしそのようなものからはこぼれ落ちてしまう神秘を、芥川が志賀直哉の「濁った頭」にはじまる一連の作品から感じ取ったこともまた真理であると思われる。
改めて、本文中に引用した芥川の言葉を載せておきます。
(*1 )ここで芥川の言葉と関連させて用いた心理学的・精神医学的カテゴリーとは、現在疾病等の診断基準で用いられているカテゴリー(分類)だけではなく、歴史期的に変遷してきた多様な分類を意味する。それは典型的事象として語られてきたあらゆるものを含む。人の内面を描こうとした時、こうしたカテゴリーから一切無縁である事はもはや困難であると思われる。
引用文献: 芥川龍之介, 芥川龍之介未定稿集, 葛巻義敏編: 岩波書店, 1976.6.30.第四刷、1968.2.13.第一刷発行.
[原典:1914年〜15年]
xxvii 本文中にも上げた茅島篤「国語ローマ字化の研究 改訂版ー占領下日本の国内的・国際的要因こ解明ー」では綿密な調査と検討を経て
最終章では
として
など多様な論拠が
いたこと
また
ことを述べ、その複雑さを明示し(CI&Eは民間情報教育局。使節団はアメリカ教育使節団)
後段でローマ字化へのアメリカ側の動向をまとめています。
そして
としています。
拙論では志賀直哉がエッセイ「国語問題」を書いた占領初期の国語ローマ字化政策についてのみ簡単にしか触れなかったが、実際にローマ字化の政策がどのような論拠でどのように進んでいったのかは、拙論とも無関係とはいえず、重要な問題であると感じたため、長文を引用させていただきました。(更に詳しくは引用文献に精細に述べられています。)
この引用をする必要性に気が付いたのは、はーぼさんの記事↓でのコメントのやり取りがあったおかげでした。私の不躾なコメントに真摯に答えてくださったはーぼさんに感謝します。
引用文献: 茅島篤, 『国語ローマ字化の研究 改訂版 ー占領下日本の国内的・国際的要因の解明ー』, 風間書房, 2009.3.31.改訂版第1刷発行(2000.3.15.初版第1刷発行).
xxviii 日本は外来文化を日本化して受容するという芥川龍之介等の視点は、間違いであるとは勿論言えない。
それは仏教の伝来や明治期の西洋文化の受容といったことばかりではなく、私の生きた時代にも多く当てはまる。
レベッカとマドンナ
例えばブレイク後の第1期レベッカのNOKKOの衣装には、シンディ・ローパーを思わせるものと混ざり合いつつも、キャバレーのダンサー・ストリッパーあるいは娼婦の服装を私に連想させるものが幾つかある。映画「フラッシュダンス」("Flashdance"1983年公開)を知る彼女が、その事を意識していなかったとは、私には思えない。(*1)
これは悪い事とはいえない。社会から蔑視されてきた人々のファッションや言葉をあえて使って、表社会で隠されていたものを表舞台に上げる。そういった事こそ、アーティストの真骨頂ともいえる。しかし例えばマドンナの「Like A Virgin 」のMVの衣装も、私に同様のことを連想させるが、そこでは前半の歌詞が、その人物の存在あり方を強く暗示している。だからこそ、Like A Virginという言葉も生きてくる。
Like A Virgin / Madonna
それは私に、ある不思議な客に惹かれていく女郎を描いた山本周五郎の短編小説「夜の辛夷」(*i)を連想させる。独特のリアリティが底にある。(*2)
対して、レベッカの歌詞の多様な比喩は、どれも全く空想的なものであり、何ら具体性を感じさせない。マドンナの歌に常にあるラディカルさは、レベッカにはない。それは変容し無害化されている。(*3)
SPEEDとTLC
他の例をあげれば、TLCに憧れたというSPEEDがある。1stアルバム『Ooooooohhh... On the TLC Tip』の時のTLCはTeenagerを思わせる子供っぽい格好をしている。しかし彼女らは既に20才を過ぎており、幼さを演じているのである。(*4)
1stアルバム所収
What About Your Friends / TLC
Ain't 2 Proud 2 Beg / TLC
そんな中、メンバーの1人 Left Eye は左目にコンドームで作った眼帯をしている。そのような格好で彼女らは Safe Sexを訴えた。
TLC talking about safe sex
そのようなラディカルさは、デビュー当時本当に子供だったSPEEDのメンバーには求められる訳もない。SPEEDのデビュー曲「Body & Soul」は、初期のTLCを連想させるところがあるが、TLCのラディカルさはSPEEDにおいてやはり変容し無害化されている。(*5)
Body & Soul / SPEED
「Body & Soul」がリリースされたのは、1996.8.5.で、既にTLCの2ndアルバム『CrazySexyCool』(1994.11.15.)が出た後である。SPEEDのデビューアルバム『Starting Over』とセカンドアルバム『RISE』の曲とファッションの中には、より大人っぽいスタイル、『CrazySexyCool』の頃のTLCを思わせるものもある。しかし『CrazySexyCool』のエッセンスとメッセージは尚のこと、当時のSPEEDのメンバーには表現するのが難しかったのではないかと思う。実際に大人だったTLCのメンバーに比べて、それは背伸びをした子供の表現であった。
1stアルバム『Starting Over』所収Steady / SPEED
2ndアルバム『RISE』所収White Love / SPEED
『CrazySexyCool』所収Waterfalls / TLC
『CrazySexyCool』所収Creep / TLC
レベッカとSPEEDの魅力の先に
レベッカとSPEEDの音楽とパフォーマンスはどちらも大変優れていて、抗えない魅力がある。(それは鎌倉仏教のような日本化された仏教が魅力的なのと軌を一にする。)以後に与えた影響も大きい。
Raspberry Dream / Rebcca
NOKKOのパフォーマンスは圧巻である
Wake Me Up! /SPEED
今観ても清新である
しかしそのことが返って、彼女らに影響を与えた海外の音楽家の真の姿を見えにくくし、本来あった歌の力を無効化しているように思う。上述したような外来文化の日本化の現象は一長一短である。このような文化受容の形は、異文化の受け入れを容易にし、日本の同一性を揺るがすような軋轢を生み出さない。それはただのファッションとして、NOKKOとSPEEDの特異で実力ある個性を彩なしているのである。
それは日本の現実を反映していると同時に、覆い隠してもいる。
それらは例えば八木澤高明の「黄金町マリア 横浜黄金町 路上の娼婦たち」(*ii)にあるような日本の性の現実を誘き出すものには、決して繋がる事はなかった。
※上述の論はレベッカ及びNOKKOとSPEEDを日本の異文化受容の一例として見るという一つの試みであって、レベッカ及びNOKKOとSPEEDを貶めようとする意図は何らありません。
*1〜6[注(引用文献、参考文献・音楽・映画含む)]
(*1)「Nokko This Town, New Yorkフォト&エッセイ」の中で、ダンス・スクールの光景を
その光景ってさ、あの映画〈フラッシュ・ダンス〉の一場面に出てきたと思わない?
と語っている。
映画「フラッシュダンス」("Flashdance"1983年公開)の主人公はキャバレーでセクシーなダンスを踊りながらダンスの練習に励んでいて、ストリップ・クラブへの出演の勧誘を受けている。彼女はキャバレーでのショーの為にたくさんの衣装を揃えている。
また1980年代頃のニューヨークの娼婦のアイコニックでステレオタイプな姿は、映画「大逆転」(("Trading Places" 1983年公開)や「プリティ・ウーマン」("Pretty Women "1990年公開)に良く現れている。
映画「Trading Places」邦題「大逆転」1シーン
映画「Pretty Women」1シーン
引用文献: 「NOKKO THIS TOWN, NEW YORKフォト&エッセイ」発行日:1986年6月10日発行所: 株式会社シンコー・ミュージック
(*2)「 Like A Virgin」の歌詞も多くのレベッカ曲の歌詞も、何かを仄めかしているだけで、はっりした事は述べられてはいない。それでいて、両者の喚起するイメージは全くちがう。レベッカのファンシーさと違って、「Like A Virgin」は現実へと繋がる強度を持っている。マドンナの2ndアルバム『True Blue』収録曲「Papa Don't Preach」でのリアルな表現を見れば、マドンナの目指していた方向性がよく分かる。これは同アルバムの「La Isla Bonita」などにも共通するものと見るべきだし、 1stアルバムから一貫したものと考えるべきであると思う。
「Papa Don't Preach」
「La Isla Bonita」
マドンナは常にアメリカのラディカルな良心であり続けたて来た思う。
『Like a Prayer』所収 Like A prayer / Madonna
Madonnaインタビュー(日本語字幕付き)
なお中で触れた山本周五郎の「夜の辛夷」は、小学館文庫 「新編傑作3 夜の辛夷」山本周五郎 竹添敦子編 2010年10月11日 初版第一刷発行 発行所 株式会社 小学館 に収録されています。初出は、〈週刊朝日別冊〉(1955年4月、時代小説特集号)です。
(*3)NOKKOがマドンナの影響を強く受けていた事は明らかである。「Rockin,On Japan Mar.1992 Vol.58」のインタビューでNOKKOはそれまでの活動を振り返る中で
問われ
と答え
少し後で
と言い
と問われ
と答えている。大変興味深い。
このインタビューの発言からも、レベッカは海外文化の日本化の一例として上げるのにふさわしいと思える。
特に
と言う発言はとても意味深い。
そしてNOKKOかバレエのステージを意識していたとすると、多様な衣装を着こなすのも納得がいく。
彼女は様々な人物を演じようとしていたのかもしれない。
引用文献: 「Rockin,On Japan Mar.1992 Vol.58」月刊ロッキング・オン・ジャパン3月号 第6巻3号通巻58号 平成元年2月20日第三種郵便物認可
平成4年3月16日発行(毎月1回16日発行)
発行=株式会社 ロッキング・オン
(*4) TLCは、2ndアルバム『CrazySexyCool』(1994年)で既に「幼さを演じる」路線から脱却している。当然のことであろう。しかし、彼女らは、女性アーティストに求められるステレオタイプな女らしさに一貫して抗い続けた事も確かである。(時にはドレスアップする事もあるとしても)
『FanMail』所収 No Scrubs / TLC
初期のスタイルは、その流れの始まりである。それは幼なさといっても、少女らしさではなく、少年ぽさである。
(*5)JUNON (ジュノン) 1997年 9月号のインタビューでSPEEDの上原多香子は
と語っている。
この初々しいポジティブな姿勢は素晴らしい。私が行った分析は、決してこういったSPEEDの良さを何ら否定するものではありません。
引用文献: JUNON (ジュノン) 1997年 9月号
発行: 主婦と生活社 月刊(毎月23日)
文献(*i)(*ii)
(*i)小学館文庫 「新編傑作3 夜の辛夷」山本周五郎 竹添敦子編 2010年10月11日 初版第一刷発 発行所 株式会社 小学館 所収短編「夜の辛夷」の初出は〈週刊朝日別冊〉(1955年4月、時代小説特集号)です。
(*ii)「黄金町マリア 横浜黄金町 路上の娼婦たち」2006.11.8.初版第一刷発行著者 八木澤高明発行所 ミリオン出版株式会社
xxix 「病床にて」の中で徳田秋声は
と言っている。
「あらくれ」[1915年(大正4年]のような当時の日本を代表する言文一致体の小説を書いた徳田秋声のこのような発言は、当時の多くの人にとって、国語(標準語)・言文一致体がいかに困難なものであったのかをうかがわせる。
大杉重男は「森有礼の弔鐘 ー 『小説家の起源』補遺」の中では、上述した徳田秋声の発言を他の発言と合わせながら
とし
と志賀と並べて論じている。
しかし志賀よりも10年以上早い明治4年(1872年)生まれで、金沢で幼少期を過ごした秋声と、当時の日本で例外的に標準語に近い言葉を話していたと思われる東京の山手で育った志賀とを同列に論じて良いものだろうか?
それは拙論の中で論じたように、志賀を育んだ言葉にも多様な要素があり、東京の山手の言葉と単純に括れないとしても、なお志賀と秋声の間の懸隔は決して小さくはなかったのではないかと思われる。
柄谷行人は「文学について」のなかで
と述べた後で
と述べている。
徳田秋声にとって標準語・言文一致体は、このような
であったであろう。
そのような要素は、志賀直哉にとってももちろん皆無ではないが、拙論で論じたように他地方に住んでも東京の下町の言葉を守り続け、言文一致体をさらに研ぎ澄ませていった志賀の感じた国語(日本語の標準化)に対する困難は、徳田秋声の感じたものとは、相当に異質なものだったのではないかと思われる。
正宗白鳥の例を上げながら
と論じ
を云い
とする大杉重男の議論は一面の真理ではあるかもしれないが、それは先に述べた志賀と秋声の違いと、志賀の発言が戦後まもないGHQの占領下に発せられたことの意味合いを無視したものであり、行き届いた議論であるとは言えない。
大杉が述べているように
のは確かであろう。
しかしそのようなにして生まれた国語は、それが定着すれば、多くの人にとって自然なものに感じられるだろう。それを自然なものとして捉える目から見れば、徳田秋声の発言は奇異なものに映るだろう。
志賀直哉の感性は、国語を人工的なもの感じる徳田秋声のような人と自然なものと感じる人との中間に位置するように、私には思われる。
引用文献:①「徳田秋聲全集」第20巻(随筆・評論Ⅱ 大正4年〜大正14年) 2001.1.18.初版発行
著者 徳田秋聲
発行所: 株式会社 八木書店
引用した本書所収の「病床にて」の初出は大正9年4月1日「新潮」
②「重力01」初版第一刷発行 2002年2月28日
発行者: 「重力」編集会議
発行元:株式会社 青山出版社
P234. 大杉重雄「森有礼の弔鐘 ー 『小説家の起源』補遺
③ 新版 夏目漱石集成
2017.11.16.第1刷発行
著者: 柄谷行人
発行所: 株式会社 岩波書店
引用した本著所収の「文学について」の初出は「國文學」1978年5月号
xxx 石森延男と共に、戦後最後の国定国語教科書の作成に携わった沖山光は「占領下における魂の雄たけび」の中で
と当時の状況を述べた後
とその意気込みを語っている。
その後も
と力強い言葉が続く。
その上で後段では占領軍の民間情報局との難しい交渉について触れた後
と述べている。
ここにはGHQと対峙した良識ある日本の知識人層の姿勢と心持ちがよく現れている。
引用文献: 石森延男国語教育選集第二巻
昭和53年(1978年)9月10日発行
著者: 石森延男
発行所: 光村図書出版株式会社
引用個所は【解説】「占領下における魂の雄たけび」沖山光
xxxi 日本の西洋文化受容については、データを用いながら分析を加えた小坂井敏晶の「異文化受容のパラドックス」(1996年)という優れた論考がある。この著書の核となる視点は、「社会心理学講義」小坂井敏晶(2013年)の中でも繰り返し取り上げられている。
中国文化がいかに日本独自のものに変わっているかということについては、中国から日本に移り住んだ際に感じた疑問を起点に、中国と日本の文化を比較検討した彭丹の「中国と茶碗と日本と」(2012年)が示唆に富んでいる。
文献
①「異文化受容のパラドックス」
1996年10月25日 第1刷発行
著者: 小坂井敏晶
発行所: 朝日新聞社
②「社会心理学講義 〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉」
2016年7月15日 初版発行
著者: 小坂井敏晶(こざかい・としあき)
発行所 株式会社 筑摩書房
③「中国と茶碗と日本と」
2012年9月5日 初版 第一刷発行
著者: 彭丹
発行所: 株式会社 小学館
xxxii 大杉重男は志賀直哉の「国語問題」について
としている。
しかし志賀は、英語やフランス語が日本に導入された場合、さまざまな植民地で現実に起きている言語の混淆が、日本でも起きるであろう事を述べているのに過ぎない。それをよりポジティブに捉えようとしているところがあるとしても。
拙論でも論じたように、志賀の「日本人の血」への信頼は、もっと大きなもの、言語の強制に伴うあらゆる困難に対して向けられているだと私は思う。
「重力01」初版第一刷発行 2002年2月28日
発行者: 「重力」編集会議
発行元:株式会社 青山出版社
P234. 大杉重雄「森有礼の弔鐘 ー 『小説家の起源』補遺
xxxiii イ・ヨンスクは『「国語」という思想 近代日本の言語認識』の中で森有礼が日本の国語として採用を主張した英語が現実に使われている英語そのままではなく
と呼ばれるものだった事を指摘しています。
同書によると
という。
このような簡易英語の発想は、拙論でも触れた人工国際言語エスペラントに近いと言えるかもしれない。
引用文献: 『「国語」という思想』
1996年12月18日 第1刷発行
2002年9月5日 第11刷発行
著者: イ・ヨンスク
発行所: 株式会社 岩波書店
引用した個所の内容は、本書の注によれば、「森有礼全集 第1巻」からの引用に基づく。森のアメリカの言語学者ホイットニー宛書簡より。
xxxiv イ・ヨンスクは『「ことば」という幻影』の中で
とし
そして志賀にあるのは
と述べている。
しかし
の後、多様な作家達の試作によって何とか形になった言文一致体を、志賀は一度は受け入れて、それを研ぎ澄ませていったのである。
その上で志賀が国語に持った
の強さは、言文一致体を完成へと導こうとした者ゆえの苦悩だといえる。
そのような志賀にとって、戦後の政策として改めて国語の改革を議論することは、もう一度
へと逆戻りすることでしかない。そのような事が受け入れ難いのは当然として
果たしてどのような
が歴史上行われていたら、志賀は満足できたというのであろうか?
おそらくどのような言語のどのような改革でも、志賀の感じた
は言語の標準化において不可避であるように思われる。
「国語問題」で志賀か主張したフランス語の導入は
確かに
ではあるだろうが、フランス語も一つの言語に過ぎない以上、それはある意味で人工的な改革の放棄である。
イは志賀がフランス語を日本の国語とする理由として
という志賀の言葉を引用しているが、これはあまりに恣意的な引用である。
この言葉の前に志賀は
と断っているのだから。志賀の言葉はアイロニックなものであり、フランス語を選んだのは拙論で論じたように、戦術的なものであろう。
そして志賀は少なくともこのエッセイにおいて、母語としての日本語と日本の国語(標準語)を混同するような事はしていない。
志賀が問題としているのは一貫して日本の国語である。
志賀の論を
と断ずるのは早計である。
それはここでイ・ヨンスクが志賀と並べて論じている北一輝とは全く違う。
北が否定しているのは、明らかに日本語全般である。
それは日本語の
にまで及んでいるのだから。
人工語エスペラントの導入よって、日本語だけでなく
(前段で北は國際語にエスペラントとルビを振っている。ここでの国際語はエスペラントを意味する。) (*1)
という北の姿勢は志賀とは根本的に異質であり、似て非なるものである。
それはイがしたように
と並置して論じられるようなものではない。(*2)
北が優れたものとして推奨するエスペラントを志賀が支持したとは思えない。
同じ白樺派の武者小路実篤や有島生馬のような熱心なエスペランティストと交流のあった志賀である。エスペラントを推奨するならば、はっきりとそう述べたであろう。
志賀の
と云う言葉を素直に受け取るならば
志賀は
イが云うように
と考えたのではなく
そのような人工的な改革そのものに
があると考えたのだと思う。
人工語エスペラントなら尚更である。
志賀は
「国語問題」の時点では
どころではなく、あらゆる人工的改革を拒否しているように、私には思われる。
志賀が望んだのは、どうせ不徹底なものに終わらざるを得ない
と人工的な改革ではなく、戦術的に導入さへた国際語としてのフランス語と母語としての日本語の自然な混淆であったと、私には思われる。
その意味ではイが 『「国語」という思想』の中で指摘した人工的に改革された
を提案した森有礼とも、志賀の考えは異質であると云えるだろう。(森の簡易英語については注xxxiiiへ)
(*1)エスペラントの創始者ザメンホフは、
といっている。エスペラントを推奨しながら、北一輝の主張はザメンホフの考えとも全く異質である。
(*2)志賀直哉と北一輝はどちらも、1883年(明治16年)の生まれですが、東京の山手で育った志賀と新潟の佐渡で育った北とでは、日本の言語について、おのずと別様の感覚があったのではないかと想像できます。
志賀が「国語問題」を出したのは63才の時、北が「日本改造法案大綱 」を著したのは38才の時でした。
北は1937年(昭和12年) 二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受けた。58歳没。志賀が「国語問題」を出した1946年(昭和21年)まで生きる事はかなわなかった。
引用書籍:『「ことば」という幻影――近代日本の言語イデオロギー』〔電子書籍版〕
2013年9月15日発行
著者:イ・ヨンスク
発行所:株式会社明石書店
電子書籍版の元本:
『「ことば」という幻影――近代日本の言語イデオロギー』2009年2月7日初版第1刷発行
日本改造法案大綱
著者: 北一輝
青空文庫
2012年10月12日作成
底本:「北一輝著作集 Ⅱ」みすず書房 1959(昭和34)年7月10日第1刷発行 1972(昭和47)年8月30日第9刷発行
初出:「日本改造法案大綱」改造社 1923(大正12)年5月9日発行
『「国語」という思想』
1996年12月18日 第1刷発行
2002年9月5日 第11刷発行
著者: イ・ヨンスク
発行所: 株式会社 岩波書店
志賀直哉, 志賀直哉全集 第七巻「国語問題」, 岩波書店, 1999.6.7.
[「国語問題」初出: 1946.4.1.「改造」第27巻第4号]「志賀直哉随筆集」高橋英夫編 [39](岩波書店)(1995.10.16.第1刷発行、2021.1.15.第9刷発行)にも所収:
⑤「国際共通語の思想 エスペラント創始者ザメンホフ論説集」L.L.ザメンホフ[著・述]水野義明[編集・訳]1997年6月10日第1刷発行著者: Lazaro Ludviko Zamenhof訳者: 水野義明発行所:株式会社 新泉者引用した「国際語の思想の本質と将来」は1900年に出されたもの。
xxxv 標準語と共通語
ここで標準語という言葉を用いたのは、標準語という言葉が飛び交った時代の事を想起しながら読んでほしいからです。
現在では標準語に代わって、共通語という言葉が多く使われている。
実際に日本全国で通じる言葉がある以上、それを共通語と呼ぶのは理解できる。
ただ
共通語を大辞林で引くと
とあった後に〔 〕
と書かれている。これには違和感を覚える。
現在使われている共通語が
によって作られた側面がある事は否定出来ない。
先の文言に沿うと、標準語を共通語と言い直す事は、そういった歴史的事実を隠蔽しかねないのではないかと危惧する。
それは共通語を
当然のものとして、受け入れさせる装置として作用している可能性はないだろうか?
もし現在の共通語が標準語に比べ
人為的に整備された規範性が弱まって感じられるのだとしたら、それは過去に強力な人為的な整備がなされた故であろう。
過去の事実について論じる場合は別として、標準語という理念的言葉を殊更に復活させる必要はないし、共通語という言葉を使う事は避けられないとしても、上記のような可能性を念頭に置いて使う必要があるだろうと思う。
追記(2024.2.17):
富岡多惠子との対談の中で、柄谷行人は母語と母国語を区別した上で
と語っている。
ここで述べられているような共通語についてであれば、先に述べた大辞林の〔 〕中の文言とも、とくに大きな齟齬はないだろう。
(柄谷行人は兵庫県尼崎市市、富岡多惠子は大阪府大阪市出身)
引用文献: スーパー大辞林 3.0
編者:松村 明(まつむら あきら)
三省堂編修所 三省堂 2006-2008
Version 4.2.4 (R62)
Copyright © 2008 MONOKAKIDO Co. Ltd.
Tokyo, Japan
All rights reserved.
柄谷行人発言集 対話篇
発行日:2020年11月12日第一刷発行
著者: 柄谷行人
発行所: 株式会社読者人
引用した富岡多惠子との対談「漫才とナショナリズム」
のは1991年6月5日、初出:『すばる』1991年8月号
xxxvi 国語・標準語・言文一致
国語・標準語・言文一致体は、もちろん同じものではないが、この論考の中で、これらを厳密に分けて論じることをしなかった。
日本の近代国家が成立する過程で、これらは相俟って進んだ。それらを厳密に区別して定義することは可能だろうが、そうした時、国語・標準語・言文一致といった言葉が飛び交った時代のダイナミックさは失われてしまうように思います。
Wikipediaの標準語(2024.2.3)では
とある。
国語・標準語・言文一致が相俟って進んだ様子がこの短い文からも分かる。
言文一致の代表的論客の一人だった山田美妙は「言文一致論概略」の中で
という想定した言文一致への反論に対して、
とし
と述べています。
ここには方言への蔑視と東京語の優位性の意識、俗語に対する普通の言葉・語法という標準語に通ずる志向性が見られる様に思います。
また明治後の日本の国語学の祖ともいえる上田万年は「標準語に就きて」の中で標準語について
と標準語を定義して
後段では
言っています。
山田美妙の主張との類似性は明らかだと思います。
そして上田万年にとって標準語は文学や文章と切り離せないものです。
上田は外国の状況について
と述べ、日本について
と述べています。
これも
と云う山田美妙と軌を一にしています。
そして、多くの文学者が東京語を元にした言文一致体の作品を書いて行ったことは、歴史が示す通りです。
このような国語・標準語・言文一致の関係について詳しく論じたものに、イ・ヨンスク『「国語」という思想』という優れた著書があります。
引用文献: ①『山田美妙集 第九巻』(全12巻)
2014年5月31日 初版発行
編者: 『山田美妙集』編集委員会
発行所: 株式会社 臨川書店
「言文一致論概略」初出:1888年(明治21年)2月25日発行「学海之指針」第八号及び3月25日発行第九号
②『国語のため』東洋文庫808
2011年4月25日 初版第1刷発行
著者: 上田万年
校注者: 安田敏朗
発行所:株式会社 平凡社
参考文献:『「国語」という思想』
1996年12月18日 第1刷発行
2002年9月5日 第11刷発行
著者: イ・ヨンスク
発行所: 株式会社 岩波書店
xxxvii 国語学・民族学・文学
国語は多義的な言葉である。とはいえ志賀直哉がフランス語にすると言った時の国語が日本の共通語もしくは公用語としての国語である事は疑い得ないだろう。ここでフランス語に置き換えられる事を求められている日本の国語は、言文一致と標準化が進み、ある程度の成功を収めた結果として出来たものである。
時枝誠記は「国語学史」の中で国語を
と敷衍させている。
このような考えを広げていくと、日琉同祖論や日鮮同祖論に見られるようにどんどんとその領域を拡大していきそうでもあるが
時枝は
としている。
これは京城帝国大学で教鞭をとった時枝の実感から来るのかもしれない。
共通語としての国語は、こうした異なった言語を母語に持つ人々に対しても公用語とされたことを忘れてはならないだろう。
朝鮮語については、志賀直哉も「国語問題」で
と簡単にではあるが触れている。
これは拙論中でも述べ、注viiでも朝鮮や台湾についての、志賀のアイロニックな態度として極々簡単にではあるが触れた。
時枝から国語学の埒外とされたアイヌ語は、日本の民俗学・文学に絡みついている。
日本の民俗学の嚆矢、柳田國男の「遠野物語」[1910年(明治43年)]では
とアイヌ語を語源とする地名が沢山出てくるし
また文中に
とあった後
との記載もある。
また北海道を舞台とした有島武郎の「カインの末裔」[1917年(大正6年)]では冒頭部で
とアイヌ語の山名が出てくる。
私はこれらを最初に読んだ時、どきりとした。
それらはアイヌについて直截に語られたものではないが、少なくとも過去に、そこでアイヌの人々が暮らしていたことを明確に現している。それではこれらが書かれた当時はどうだったのか?
それは語られぬだけに、語られた物語・小説に纏わりついているように、私には思われる。
そのように思ってから読見直すと、言文一致小説の嚆矢の一つ、国木田独歩の北海道を描いた「空知川の岸辺」[1902年(明治35年)]にアイヌを思わせるものが何も出てこないのは、何か異様な感じがして来る。
空知太というアイヌ語が語源と思われる地名も、流暢な言葉の中に埋もれて、何も感じさせない。
と平然と語る国木田の小説には、有島武郎や柳田國男が記した残酷な物語・小説とは別種の残酷さが底に横たわっているように思われる。
なお日本語を母語としない人々に対する日本の言語政策については『言語帝国主義とは何か』所収の「日本の言語帝国主義」【アイヌ、琉球から台湾まで】小熊英二と「帝国日本の言語編制」【植民地期朝鮮・「満州」・「大東亜共栄圏」】安田敏朗が包括的でかつ分かりやすい。
引用文献: ①『国語学史』 〔電子書籍版〕 2021年7月21日発行
著者:時枝誠記
発行所:株式会社 岩波書店
定本: 「国語学史」2017年10月17日 第一刷発行 岩波文庫
昭和15年(1940年)12月発行『国語学史』岩波書店、が底本の元本と思われる。
②志賀直哉, 志賀直哉全集 第七巻「国語問題」岩波書店, 1999.6.7.
[「国語問題」初出: 1946.4.1.「改造」第27巻第4号]「志賀直哉随筆集」高橋英夫編 [39](岩波書店)(1995.10.16.第1刷発行、2021.1.15.第9刷発行)にも所収
③「遠野物語」柳田國男
青空文庫 2012年12月16日作成
2022年3月9日修正
底本:「遠野物語・山の人生」岩波文庫、岩波書店 1976(昭和51)年4月16日第1刷発行 2007(平成19)年10月4日第47刷改版発行 2010(平成22)年3月5日第50刷発行
初出:「遠野物語」柳田國男
1910(明治43)年6月14日発行
④「カインの末裔」有島武郎
青空文庫
2000年3月4日公開
2005年9月24日修正作成
底本:「カインの末裔 クララの出家」岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年9月10日第1刷発行 1980(昭和55)年5月16日第25刷改版発行 1990(平成2)年4月15日第35刷発行
底本の親本:「有島武郎著作集 第三輯」新潮社 1918(大正7)年2月刊
初出:「新小説」 1917(大正6)年7月号
⑤「空知川の岸辺」国木田独歩
(明治三十五年十一月─十二月)
青空文庫
2000年6月27日公開2006年3月18日修正
底本:「現代日本文學大系 11
國木田獨歩・田山花袋集」筑摩書房
1970(昭和45)年3月15日初版第1刷発行 1973(昭和48)年9月1日初版第4刷発行
参考文献: 『言語帝国主義とは何か』
2000年9月30日 初版第1刷発行
2006年11月30日 初版第4刷発行
編者: 三浦信孝 粕谷啓介
発行所: 株式会社 藤原書店
xxxviii 主観・自我・身体性〈柄谷行人・メルロー=ポンティ・志賀直哉〉
柄谷行人は『日本近代文学の起源』[64]の中で、志賀直哉の「濁つた頭」から引用しなら、志賀について
と述べています。
また同著の中で、柄谷は、拙論でも取り上げた志賀直哉の「クローディアスの日記」に出て来る
すという
を引用し、さらにメルロ=ポンティ『眼と精神』(滝浦静雄・木田元訳)所収「幼児の対人関係」に出て来る
というある
を「クローディアスの日記」の夢と関連付ける為に引用しています。
それは
という内容で、メルロ=ポンティはこういった例などから
と結論づけています。
このメルロ=ポンティの帰結を引用しながら
柄谷行人は志賀直哉について
と述べています。
メルロ=ポンティは先の論の中で
と云い
と三歳頃に主観が現われ出て来る事を示し
そしてそうなると
と述べています。
しかしその上でメルロは
と述べ、三歳児において見られる現象は
としています。
柄谷行人が述べたように
とするなら、それはメルロ=ポンティに即すれば3歳頃に現れる主観以前のものであり、5、6歳頃に芽生える自我からは更に距離の或る感覚です。
メルロ=ポンティの考察を元に柄谷行人に即して考えれば、私が志賀の「濁つた頭」、「クローディアスの日記」を含む一連の作品から自我を感じられなかったのは、当然のことと云えるのかもしれません。
「幼児の対人関係」の後段でメルロ=ポンティは
と論じています。
このような
を志賀の一連の作品は捉えていると云えるのかもしれません。
引用文献: ①『日本近代文学の起源』[64]
著者: 柄谷行人
1988年6月10日第1刷発行
2006年3月1日第35刷発行
発行所: 株式会社 講談社
引用は本書の中のⅢ「告白という制度」(初出季刊芸術1979年冬号)より
②『眼と精神』
著者: M. メルロ=ポンティ
滝浦静雄・木田元共訳
1966年11月30日 第1刷発行
2022年4月15日 第36刷発行
発行所: 株式会社 みすず書房
引用は本書所収「幼児の対人関係」(1950〜51年にかけてパリ大学文学部で行われた幼児心理学の講義録)より
引用文献・映画と参考文献
[1] 志賀直哉, 志賀直哉全集 第七巻「国語問題」(書籍は[12]と同じですが、引用数が多いため別枠としました。, 岩波書店, 1999.6.7.
[「国語問題」初出: 1946.4.1.「改造」第27巻第4号]「志賀直哉随筆集」高橋英夫編 [39](岩波書店)(1995.10.16.第1刷発行、2021.1.15.第9刷発行)にも所収:
[2] 志賀直哉, 『夕陽』, 櫻井書店, 1960.9.15.
[初出:「文芸放談」1946.9月「朝日評論」
「浅春清談」1947.1月「サンデー毎日」
「内村鑑三その他」1948.1月「文芸」
「志賀氏を囲んでの芸術夜話」1957.1月「随筆サンデー」]
[3] 茅島篤, 『国語ローマ字化の研究』(改訂版), 風間書房, 2009.3.31.改訂版第1刷発行(2000.3.15.初版第1刷発行).
[4] 賀茂真淵, 國意考(現代語訳)電子版, 原著1804年: いざなみ文庫, 2019.10月. [原著1764〜1769]
[5] 本居宣長, 『玉勝間』上: 岩波書店, 2008.4.4.第20刷発行(第1刷1934.6.15). 下: 1970.5.10.第9刷発行(第1刷1934年) [原著1795〜1817]
[6] 江藤淳, 『閉ざされた言語空間』, 2019.10.5.第15刷(1994.1.10.第1版)
[底本 1989.8月、初出:1982.2月号〜1987.2月号「諸君!」(6回に分け掲載): 文藝春秋]
[7] 時枝誠記, 『国語学史』(電子書籍版), 岩波書店, 20021.7.21.
[底本:「国語学史」2017.10.17.第1刷発行
底本の親本:「国語学史」岩波書店1966.5月第14版、初版1940.12月]
[8] 菊池寛, 『志賀直哉氏の作品』, 青空文庫, 2005.1.6.
[底本:「半自叙伝」講談社学術文庫1987.7.10.第1刷発行、原典: 1918.11月]
[9] 田中章夫, 『東京語ーその成立と展開』, 明治書院, 1983.11.30.
[10] 阿川弘之, 志賀直哉, 底本1994.7月岩波書店: 新潮社, 1997.8.1.
[11] 谷崎潤一郎, 『卍』, 新潮社, 2010.5.15.107刷改版、1951.12.10.発行.
[ 初出1928〜1930年『改造』]
[12] 志賀直哉, 志賀直哉全集 第七巻, 岩波書店, 1999.6.7.
[初出:「五月蝿」1945.12.1.「文藝春秋」、「特攻隊の再教育」1945.12.16.「朝日新聞」、「天皇制」1946.4.1.「婦人公論」]
[13] ソシュール , 『一般言語学講義』, 小林英夫訳: 岩波書店, 1972.12.22.改訂版第1刷発行(1940.3.1第1刷発行)
[14] 志賀直哉, 『和解・濁った頭 ほか十三編』(電子書籍), 2019.11.1
[底本:1972.2月講談社文庫、原典:「濁った頭」1911年、「クローディアスの日記」1912年]
[15] 芥川龍之介, 「神神の微笑」, 青空文庫, 1998.12.19.公開、2004.3.10.修正.
[底本:「芥川龍之介全集」ちくま文庫(筑摩書房)1987.1.27.第1刷発行、1993.12.25.第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房1971.3月〜11月、原典1921.12月]
[16] 芥川龍之介, 「蜘蛛の糸」, 青空文庫, 1997.11.10公開、2011.1.28.修正.
[底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫(筑摩書房)1986.10.28.第1刷発行、1996.7.15.第11刷発行
親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集1971.3月〜11月、原典1918.4.16]
[17] ポール・ケーラス , 因果の小車(Kindle版 電子書籍), 鈴木大拙訳、温古堂文庫, 2021.4.27.
[底本「因果の小車」長谷川商店1898年、原典1894年]
[18] ドストエフスキー, カラマーゾフの兄弟 完全版(電子書籍), 米川正夫訳 上妻純一郎編集 2019.4.16.第3版(初版2017.12.26).
[原著1880年: 古典教養文庫]
[19] 芥川龍之介, 「河童」, 青空文庫, 1999.1.24.公開、2012.3.20.修正.
[底本:「河童・或阿呆の一生」旺文社文庫(旺文社)1966.10.20.初版発行、1984年重版発行
初出:1927.3.1.「改造」]
[20] 志賀直哉, 志賀直哉全集 第八巻, 岩波書店, 1974.6.5.
[初出:「『クローディアスの日記』に就いてー舟木重雄君にー」1913.4.1「奇蹟」
「『芥川龍之介全集』推薦」1934.10月
「『定本小林多喜二全集』」推薦1968.1月
「メートル法廃止運動に就いての返事」1938.6月]
[21] シェイクスピア, ハムレット(電子書籍版), 福田恆存訳 新潮社, 2016.1.29. 「解題」福田恆存
[底本2013.6月発行第95刷、初版1967年、原作1601年頃]
[22] 太宰治, 『新ハムレット』, 青空文庫, 2003.1.27.作成.
[底本『新ハムレット』新潮社1974.3.30.発行、1995.1.30.30刷改版、1998.7.20.33刷。
原典:1941.7月.文藝春秋社]
[23] 君塚直隆, 『物語 イギリスの歴史』(電子書籍版), 底本:2019.6.10.上(7版)下(6版): 中央公論新社, 2019.8.1.
[24] 吉本隆明, 『共同幻想論』, 河出書房新社, 1981.4.3.39版発行(1968.12.5. 初版発行)
[25] 赤松敬介, 『夜這いの民俗学・夜這いの性愛学』(電子書籍), 筑摩書房, 2014.10.31.
[底本:2004.6月ちくま学芸文庫、うち『夜這いの民俗学』は1994.7.15.明石書店刊行]
[26] 「もののあはれ」をめぐる本居宣長の考えについては、この本が分かりやすく参考になった。
本居宣長, 新潮日本古典集成(新装版)『本居宣長集』, 日野龍夫校註
大和心は宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれた「しき嶋のやまとこころを人とはば朝日ににほふ山さくら花」が有名である。: 新潮社, 2018.9.30.
[27] 上田秋成, 上田秋成全集 第1巻 国学篇所収「呵刈葭」, 中央公論社, 1990.11.25.
[参考比較:日本の名著 21 本居宣長所収「呵刈葭 」現代語訳 中央公論社 1970.5.10]
[原典1786年]
[28] 江藤淳, 『近代以前』, 文藝春秋, 2013.10.20
[底本『近代以前』(1985年、小社刊)]
[29] 上田秋成, 胆大小心録, 重友毅校訂岩波文庫, 1989.3.17.第3版発行(初版1938.10.15)
[ 原典1808年]
[30] 上田秋成, 雨月物語(改訂 現代語訳付き), 鵜月洋訳註: KADOKAWA, 2013.12.15.[原典:1768年〜1776年 ]
[31] 芥川龍之介, 芥川龍之介未定稿集, 葛巻義敏編: 岩波書店, 1976.6.30.第四刷、1968.2.13.第一刷発行.
[原典:1914年〜15年]
[32] 芥川龍之介, 『点鬼簿』, 青空文庫, 1998.10.5.公開、2016.2.25.修正.
[底本「昭和文学全集 第1巻」小学館1987.5.1.初版第1刷発行
底本の親本「芥川龍之介全集 第8巻」岩波書店1978.3.22.発行
初出「改造 第8巻11号」1926.10.1]
[33] 芥川龍之介, 「歯車」, 青空文庫、2009.3.24.
[底本:「河童・或る阿呆の一生」新潮文庫(新潮社)1968.12.15.発行、1987.11.5.41刷、原典1927年, 2009.3.24.]
[34] 芥川龍之介, 「或阿呆の一生」, 青空文庫, 1998.4.23.公開、2005.12.2.修正.
[底本:「現代日本文学体系43芥川龍之介集」筑摩書房1968.8.25.初版第1刷発行、原典:1927.6月遺稿]
[35] 三島由紀夫, 『文化防衛論』(文庫版)筑摩書房, 2021.7.10.第10刷発行、2006.7.10.第1刷発行.
[初出「文化防衛論」中央公論 昭和43年(1968年)7月号]
[36] 三島由紀夫, 三島由紀夫対談集『源泉の感情』2006.2.20.河出書房新社
[底本:1970.10 月、初出:「文武両道と死の哲学」福田恆存との対談 1967.11月「論争ジャーナル」]
[37] 監督 豊島圭介, 『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』, 1969.5.13.東京駒場キャンパスでの三島由紀夫と全共闘学生の討論会のドキュメンタリー, 2020.3.20.公開.
[38] 三島由紀夫, オリジナル版『英霊の声』, 河出書房新書, 2020.4.30. 9刷発行、2005.10.20. 初版発行. [底本『英霊の声』1966年、初出:「英霊の声」1966.6月『文藝』、「憂国」1960.冬季号『小説中央公論』、「十日の菊」1961.12月『文學界』]
[39] 志賀直哉高橋英夫編, 志賀直哉随筆集, 岩波書店, 1995.10.16.第1刷発行、2021.1.15.第9刷発行.
[初出: 「内村鑑三先生の憶い出」1941.3.1「婦人公論」、「ナイルの水の一滴」1969.2.23.「朝日新聞」]
[40] 有島武郎, 「惜しみなく愛は奪う」, 青空文庫, 2003.7.28.作成、2012.8.8.修正.
[底本:「惜しみなく愛は奪う」新潮文庫(新潮社)1955.1.25発行、1968.12.20.25版改版、1974.8.30.34刷
初出:「有島武郎著作集 第1輯」叢文閣1920.6月]
[41] 志賀直哉, 『暗夜行路』, 新潮社, 1990.3.15.発行、2004.3.5.31刷.
[原典:1921.1月〜1937.4月「改造」]
[42] 有島武郎, 「或る女 前編」青空文庫, 1999.10.17.公開、2013.1.8.修正
[底本:「或る女 前編」岩波文庫(岩波書店)1950.5.5.第1刷発行、1968.6.16.第27刷改版発行、1998.11.16.第42刷発行
初出:1911.1月〜1913.3月「白樺」]
[43] 有島武郎, 「或る女 後編」, 青空文庫, 2000.3.1.公開、2013.1.8.修正.
[底本:「或る女 後編」岩波文庫(岩波書店)1950.9.5.第1刷発行、1968.8.16.第23刷改版発行、1998.11.16.第37刷発行
初出:叢文閣「有島武郎著作集」(前編と合わせて)]
[44] 有島武郎, 「カインの末裔」, 青空文庫, 2000.3.4.公開、2005.9.24.修正.
[ 底本:「カインの末裔 クララの出家」岩波文庫(岩波書店)1940.9.10.第1刷発行、1980.5.16.第25刷改版発行、1990.4.15.第35版発行
底本の親本:「有島武郎著作集 第三輯」新潮社1918.2月刊行
初出:1917年7月号「新小説」]
[45] 太宰治, 『如是我聞』(電子書籍)2000.10.14.公開、2004.3.4.修正, 青空文庫.
[底本『もの思う葦』新潮社 1980.9.25.発行、1998.7.20.第38刷発行。原典1948.11.10.新潮社]
[46] 三島由紀夫, 『古典文学読本』中央公論新社,初版発行 2016.11.25. 、再版発行 2020.5.25. うち「日本の古典と私」初出: 1968.1.1.他「山形新聞」
[47] ガンジー, 「ガンジー自伝」, 蠟山芳郎訳: 中央公論社, 1992.12.15. 8版 (1983.6.10初版).
[初出: 1925年〜1929年]
[48] 柄谷行人, 日本精神分析, 文藝春秋, 2002.7.30.
[49] 土岐善麿, 『國語と國字問題』, 春秋社, 1947.2.20.
[50] 平岡敏夫, 『日本近代文学の出発』塙書房,1992.9.10. [底本 1973年紀伊国屋書店]
[51] 江藤淳, 『リアリズムの源流』, 河出書房新社, 1989.4.20.発行.
うち「リアリズムの源流ー写生文と他社の問題」初出1971.10月号「新潮」]
[52] 岡田泰平, 『「恩恵の論理」と植民地ーアメリカ植民地期の教育とその遺制』, 法政大学出版局, 2014.9.30.
[53] ポール・ド・マン, 美学イデオロギー, 平凡社, 2013.12.10.
[底本2005.1月平凡社、「アイロニーの概念」
原典:1977.4.4.オハイオ州立大学での講演をもとに校訂]
[54] ルイ=ジャン・カルヴェ, 『言語学と植民地主義ーことば喰い小論ー』, 砂野幸稔訳: 三元社, 2006.7.20
[原著:1998、2002、初出:1974.1月]
[55] 蓮實重彦, 『反=日本語論』, 筑摩書房, 2019.4.20.第3版発行(初版2009.7.10)
[底本 1977年筑摩書房]
[56] 大野晋, 『日本語練習帳』(電子書籍版), 岩波書店, 2004.12.10.
[ 底本1999年日本語練習帳]
[57] 鈴木孝夫, 『閉ざされた言語・日本語の世界』(増補改訂版)(電子書籍)新潮社 2017.8.11.
[定本:『閉ざされた言語・日本語の世界』(新潮選書)(1975.3月)を増補改訂(新潮社)した初版第1刷 (2017.2月)]
[58] 加藤三重子, 城西大学大学院研究科、論文『志賀直哉の「国語問題」の政治学』, 成城国文学.15号, p29〜P39、1999.3.
今回は拙論との対比として、簡単に触れただけですが、私が知る範囲でまともに志賀の「国語問題」を取り上げた数少ない論の1つです。この論文と自分の考えを比較検討することなくして、私の拙論は完成することはなかったと思います。感謝するとともに、敬意を感じます。
加藤三重子さんの志賀直哉についてのもう一つの論文「志賀直哉『灰色の月』のポリティクス」もたいへんな力作です。驚きます。
「志賀直哉『灰色の月』のポリティクス」成城国文学18号、p100〜P116、2002.3月
[59] アチェべ, 『崩れゆく絆』, 粟飯文子訳、光文電子書店, 2015.6.19. 「解説 チアヌ・アチェべとアフリカの文学」粟飯原文子
[原著1958年]
チアヌ・アチェべの小説『崩れゆく絆』を、今回は植民地とキリスト教の関係についての参照例として挙げたが、この小説でそれが描かれるのは、後半の最後部であり、話の殆どは、植民地化される前のナイジェリアのイボ人の社会にさかれています。とても興味深く、優れた小説です。
ひらげエレキテルさんが Youtubeで『崩れゆく絆』について語っています。ネタバレの感はありますが、とても興味深い内容です。↓
[60] 福田恆存, 『國語問題論争史』, 編輯者 土屋道雄、[61]は土谷道雄による増補版: 新潮社, 1962.12.25.
[61] 土屋道雄, 『國語問題論争史』玉川大学出版部, 2005.1.10. ,福田恆存「國語問題論争史」(新潮社) [60]の編輯者・土屋道夫による増補版:
[62] 芥川龍之介, 「文芸的、余りに文芸的な」, 青空文庫, 1999.2.2.公開、2004.3.16.修正.
[底本:「現代日本文学体系 43 芥川龍之介集」筑摩書房1968.8.25. 、原典:1927.2月〜7月]
[63] 丸谷才一, 『日本語のために』新潮社, 1974.8.30.、17版1975.10.10.
引用部分は『完本 日本語のために』新潮社(2011.3.1.)には収録されなかった「当節言葉づかい」の後半にあります。
[64] 柄谷行人、『日本近代文学の起源』講談社、1988.6.10.第一刷発行、2006.3.1.第35刷発行
[底本:1980.8月、「告白という制度」初出「季刊藝術」1979年冬号
[65] 柄谷行人、『反文学論』冬樹社 1979.4.25.初版第1刷発行、1984.2.25.第4版発行 [「法について」初出:1978.6]
[66] 甲斐睦郎、『終戦後直後の国語国字問題』明治書院、2011.3.30.
[67] 富岡多惠子、『新家族ー富岡多惠子自選短編集ー』學藝書林1990.2.25.初版発行、1992.10.5.2版発行
[初出:「坂の上の闇」1978.7月号「群像」(講談社、1980年刊『芻狗』所収)
[68]三島由紀夫、『行動学入門』文藝春秋社1974.10.25.第一刷、2021.2.25.第45刷、三島由紀夫による後書きは1970年に書かれている。各エッセイの初出はそれ以前。)
これまでの論文とエッセイ
自己紹介の代わりに
自身の作品 (詩・短歌・俳句・夢)
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