占領下の抵抗(注 ⅻ)

明治政府は、当初キリスト教を弾圧しました。しかし西欧列強の圧力により、信教の自由を認めます。キリスト教(プロテスタント)が日本で広まるのは、明治20年頃からで、信者の中心は、かつての幕臣の師弟であったといいます。(『日本近代文学の出発』平岡敏夫 [50])
志賀直哉の師・内村鑑三もその一人です。明治維新という暴力と西欧列強の強大な軍事力の狭間で、キリスト教は足場を失った者たち(幕臣の師弟)の拠り所になった。
ナイジェリアの作家チアヌ・アチェべが『崩れゆく絆』の後半で描いたキリスト教の二重性

ある人々にとってはキリスト教が新たな可能性と解放の契機をもたらした。しかし同時に、キリスト教は植民地支配の論理と結びついき、社会が独自に変革し刷新していく能力と機会を、暴力的に、そして永久に奪い去ってしまうことになった
『崩れゆく絆』の「解説 チアヌ・アチェべとアフリカ文学」
粟飯文子[59]

と部分的には似た構図が日本にもあったのかもしれません。
しかし、日本で最初にキリスト教に救いを求めたのは、アチェべが描いたような

共同体で抑圧を受けてきた者たち
『崩れゆく絆』の「解説 チアヌ・アチェべとアフリカ文学」
粟飯文子[59]

よりも、かつての支配層(幕臣)の師弟でした。そして日本は植民地化されることはなかった。

社会が独自に変革し刷新していく能力と機会を、暴力的に、そして永久に奪い去
『崩れゆく絆』の「解説 チアヌ・アチェべとアフリカ文学」
粟飯文子[59]

られるという過酷かこくな状況は、日本にはなかった。キリスト教の広がりは限定的でした。信者からも棄教ききょうする者が続出します。キリスト教を堅持けんじし続けた内村鑑三とその教えとの葛藤かっとうを先鋭化せんえいかさせた志賀直哉のような人は、どちらも日本ではまれでした。その志賀の特異性が、独特の考察を可能にしたと云えます。

なお、日本人とキリスト教の関係については、柄谷行人『日本近代文学の起源』[64]の「告白という制度」で詳しく論考を加えている。志賀の『濁った頭』に連なる作品群についても、そこで触れられている。この点での拙論せつろんの発想は、多く柄谷氏の考察に触発しょくはつされたものである。


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