占領下の抵抗(注 ⅱ )

例えば日本語の全面的ローマ字化を主張した土岐善麿はG H Qのローマ字化の動きを歓迎し、『國語と國字問題』 [49]を書きましたが、その冒頭を

太安萬侶が古事記をつくつたとき、(中略)いろいろと苦辛をかさねて、遂に、その漢字にとくべつな日本語的用法を考えだした。
『國語と國字問題』[49]

と云うところから始めています。そして日本語の

ことばを音としてつたえることは、なかなかむずかしかった。
『國語と國字問題』[49]

とし、カナ文字の発明から、前島密の漢字廃止論、南部義籌西周のローマ字論へと必然の流れであるかのように描いて、ローマ字を日本語の歴史の中に正統に位置付けようとしています。これは日本語のローマ字化を正当化する試みなのはもちろんですが、同時にナショナリスティックなものだと思います。前島・南部・西の三人の目的が、日本の国力を高め、日本の独立を守ることにあったのはその論旨より明らかです。特に南部については、明白に国粋主義的であることを、土岐も認めています [49]。
ただそれが西によって、真に開明的なものになったというG H Qが喜びそうな論述になっています。土岐はこの著書の中に、米国対日教育使節団の報告書の国語改革に関する箇所を全て載せて

消しておしつけがましい指圖はしない。指圖どころか、實に親切な、ていねいなことばづかいで、その決定を日本人にまかせている。
『國語と國字問題』[49]

と賛辞さんじを送っています。しかしこれは賛辞であると同時に、今後も変わらず “指図さしずせずに日本人に任せるように” という牽制けんせいの意味もあったのではないかと思います。
土岐の国語のローマ字化を正当化しようとする歴史の中に、賀茂真淵本居宣長への言及がないのが気になる所ではあります。もしかすると、国学を取り上げることが、国粋主義を警戒するG H Qの意向に沿わないと判断したのかもしれません。



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