占領下の抵抗(注 ⅴ)

これが志賀独特のアイロニーである事は私には疑い得ないのですが、多くの論者は、志賀の主張を真正面から捉とらえるばかりなので不思議です。

それは

無茶苦茶な議論で、馬鹿につける薬はないとどなりたくなる
『日本語のために』[63]

という丸谷才一から

内容については(フランス語で語ったとしても)支離滅裂だろうとしながらも

真面目に扱う必要のある、近代の日本人の国語観を典型的に示した重要な論文
『閉ざされた言語・日本語の世界』[57]

とする鈴木孝夫

敗戦といふ衝撃によつて生じた一時的な精神麻痺の悪戯とは言え、些か度が過ぎている。
『國語問題論争史』[61][60]

と切り捨てる『國語問題論争史』 [61] [60]の土屋道雄福田恆存

このような主張をする志賀を「小説の神様」とした人々への苛立ちを露わにする大野晋『日本語練習帳』 [56])まで、志賀の豪胆ごうたんさに比べると、皆とても小心しょうしん生真面目きまじめさを示しています。

私の知る限りでは、蓮實重彦

「制度」としての「日本語」と国家としての「日本」とに対する苛立ちに捉えられ、その「制度」が「制度」として機能しえない理想郷を「フランス語」として思い描いてみたまでのことだ。
『反=日本語論』[55]

と云う言葉のみが、一面で芯をついています。
蓮實の云う「『制度』としての『日本語』と国家としての『日本』とに対する苛立ち」は、確かに志賀に内在していたと思います。

しかし、敗戦直後のこの時期に、なぜ志賀があえてこのような発言をしたのかを、それだけで説明するのは無理があります。
そこには G H Q による支配下という状況を|鑑)かんがみ》る事が必要だと思います。
そしてその場合、加藤三重子『志賀直哉の「国語問題」の政治学』 [58]で示唆しさしているように、アメリカに対するひそかな反発から、フランス語を選んだと云うよりも、より積極的な抵抗として志賀は選択したのだと、私は考えます。

*追記: 2022.2.25

加藤三重子の他に、当時の状況をかんがみた論考として

終戦後直後の特別な状況の中で執筆されている
『終戦後直後の国語国字問題』[66]

ことを強調した甲斐睦郎『終戦後直後の国語国字問題』[66] があります。まともに志賀の『国語問題』を扱ったものとして大変貴重なものですが、私は拙論せつろんを書いた当初、この著書の事を愚かにも知らなかった。
読み通してみて大いに参考になったが、拙論に大きな変更を加える必要は感じなかった。

ただ一つだけ重要な指摘があった。それは志賀が対談『浅春放談』[2]の中で

「主格なしで文章の書ける国語というものは言葉としては非常に不完全なものだと思ふ。」
『浅春放談』[2]

と日本語について言っている事です。
このような事を志賀の考える国語批判の中心とするなら、日本語そのものを否定したと取られても仕方がない。

志賀はこの後

「突飛なやうだけれども、言葉は日本の言葉を、名詞でもなんでも使つていいが、文章の構成だけでも、フランス語にするといふことはどうかね」
『浅春放談』[2]

と言っています。これをどう理解したら良いか。

これは似通った主張をした対談『内村鑑三その他』の

「皆に対手にされないことを承知で、云つてゐるのです。」
『内村鑑三その他』[2]

という志賀の言葉から押して、『国語問題』がまともに相手にされないことに苛立った放言という側面が強いように、私は思います。
志賀にも混乱した部分があったのかもしれませんが、この発言だけで「主格なしで文章の書ける国語」である事が志賀の国語批判の主題の1つであるとは、私には思えない。
日本語が「主格なしで文章の書ける国語」である事は自明のことであり、志賀のような老練な作家が今更このような事を強調してみせるのは、その後の「突飛な」意見へつなげるための方便ではないかと思います。



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