占領下の抵抗(注xxvi)

芥川龍之介の云う

人々の心裡のうちに、隠れた

芥川の遺稿『志賀直哉氏の短編(断片)』[31]

神秘を描こうとすると、大体において、それをおびき出すか(怪談)、分析するか(心理学)の主に2つの方法に収束していくように思う。

それは芥川が述べたように

笑ふ可き「怪談」を繰り返すか、さもなければ、幼稚なカテゴリイの中に徘徊するか

芥川の遺稿『志賀直哉氏の短編(断片)』[31]

のどちらかか、その混合になりがちである。

優れた作品でも、この2つの方法を避ける事は難しい。それは近年の作品を見てもわかる。

吾峠呼世晴の「鬼滅の刃」や諫山創の「進撃の巨人」のような優れたヒット作が、怪談と多様な心理学的・精神医学的カテゴリー(*1)との混淆こんこうである事は、一見して明らかであるように、私には思われる。
両作品は、驚くほどさまざまな学術的知識の宝庫でもある。

それは私に泉鏡花の「高野聖」や芥川龍之介の「河童」を想起させる。

これらは全て

笑ふ可き「怪談」

芥川の遺稿『志賀直哉氏の短編(断片)』[31]

とか

幼稚なカテゴリイの中に徘徊

芥川の遺稿『志賀直哉氏の短編(断片)』[31]


といって片付けられるようなものではなく、たいへん優秀な作品であるし、エンターテイメントとして楽しめる。

しかしそのようなものからはこぼれ落ちてしまう神秘を、芥川が志賀直哉の「濁った頭」にはじまる一連の作品から感じ取ったこともまた真理であると思われる。


改めて、本文中に引用した芥川の言葉を載せておきます。

神秘が、古の希臘の神々のやうに、森からも海からも遂におはれて、人々の心裡のうちに、隠れたのは、今更らここに云う迄もない。−神秘を解こうとした作家は、日本にも、少なくない。しかし、彼等の多くは笑ふ可き「怪談」を繰り返すか、さもなければ、幼稚なカテゴリイの中に徘徊するか、その二途を出ずにゐたのである。翻つて、「濁った頭」にはじまる作品のseriesを見ると、ここに描かれた神秘は、いづれも殆直下ぢげに、常人の世界に迫つて来る神秘である。「濁った頭」の末節に於て、津田のみた林間の幻影の如きは、明に「怪談」を離れた神品であつた。

芥川の遺稿『志賀直哉氏の短編(断片)』[31]


(*1 )ここで芥川の言葉と関連させて用いた心理学的・精神医学的カテゴリーとは、現在疾病等の診断基準で用いられているカテゴリー(分類)だけではなく、歴史的に変遷してきた多様な分類を意味する。それは典型的事象として語られてきたあらゆるものを含む。人の内面を描こうとした時、こうしたカテゴリーから一切無縁である事はもはや困難であると思われる。


引用文献: 芥川龍之介, 芥川龍之介未定稿集, 葛巻義敏編: 岩波書店, 1976.6.30.第四刷、1968.2.13.第一刷発行.
[原典:1914年〜15年]


この記事は↓の論考に付した注です。本文中の(xxvi)より、ここへ繋がるようになっています。

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