占領下の抵抗(注 xix)

志賀直哉の「濁った頭」で述べられた同性愛は現代のものとはだいぶ違っているように感じられます。それはまるで異性愛へと向かう一段階であるかのように読めます。

三橋順子は著書『歴史の中の多様な「性」ー日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』の中で

前近代の日本人が男色体験を一種の通過儀礼と認識していた

『歴史の中の多様な「性」
ー日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』三橋順子

ことを指摘しています。

それはこの小説の主人公のように、女色へと容易に結びつくものだった。

三橋順子によれば

日本の前近代の男色文化の最大の特性は年齢階梯制という仕組みにあ

『歴史の中の多様な「性」
ー日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』三橋順子

り、同著を元に僕なりに要約すると、それは

性愛行為において、受動的役割を担っていた年少者が、成長して年長者としての能動的役割を担うようになることによって、受動から能動へと役割を変えながら、伝えられていくものだった。

明治以降こうした男色文化は抑圧されるが、男子校文化の中で、根強く残っていたことをこの本は様々な事例を元に指摘しています。

志賀直哉との関連では、里見弴が「志賀君との交友録」『銀語録』相模書房(1938年)の中で志賀へと向けた言葉を紹介しています。

志賀直哉が、このような男色文化が色濃く残る社会で、この小説を書いたのだということが、この本を読むと良くわかります。

同著で三橋は前近代の日本では

男性同士の性愛は「男色」として概念化されていたが、それは成人した男性と元服前の少年の関係が主で、成人男性同士の性愛を中心とする「男性同性愛」とはかなり異なる。男色は文化的、環境的な要素が強く影響していて後天的かつ可変的である。それに対して「同性愛は先天的かつ不変的とされている。「男色」と「男性同性愛」は似て非なるものだ。そこらへんをしっかり認識してほしい。

『歴史の中の多様な「性」
ー日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』三橋順子

と述べています。重要な指摘です。

志賀直哉の「濁つた頭」で述べられた男性同士の性愛もおそらく男色の流れを汲むもと思われるので、男性同性愛とするよりは男色とする方が正しいのかもしれない。

引用文献:
『歴史の中の多様な「性」ー日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』三橋順子
2022.7.14.第1刷発行
岩波書店


この記事は↓の論考の中の[志賀直哉の眼差(芥川龍之介との比較)]で志賀直哉の「濁った頭」に言及した箇所の「同性愛」に付けた注です。
↓の文章中の 同性愛と書かれた横の xix より、こちらへ繋がるようにしてあります。



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