占領下の抵抗(注 xvii)

xvii 志賀の短編の作風は様々ですが、それぞれのフレームは異なっても、正岡子規高浜虚子に始まる近代俳句と写生文に、どれも近いように思います。
これは、江藤淳『リアリズムの源流』 [51]の中で分析したように、近代日本のリアリズムの源流の一つが写生文に基づいていて

志賀が虚子と

地下水にようにリアリズムへの志向が共通していた。

『リアリズムの源流』[51]

とするなら、当然のことと云えます。

菊池寛

氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家のリアリズムとは、似ても似つかぬように自分に思われる。

志賀直哉の作品』[8]

と指摘しているのも、志賀が、国木田独歩に端たんを発する日本の自然主義派島崎藤村田山花袋など)のリアリズムとは別の、写生文の流れを汲くんでいる故ゆえであろうと思います。

そして、芥川龍之介が『文芸的な、あまりに文芸的な』の中で、

あらゆる小説中、もっとも詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いものである。

『文芸的な、余りに文芸的な』[62]

と云った「『話』らしい話のない小説」の代表格として志賀をあげているのは、もっともなことだと思います。



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