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脱学校的人間(新編集版)〈50〉

 個性と同様に、あるいはそれと関連づけられて、「他人とは違うものとして見出されるもの」が、すなわち「アイデンティティ」と一般に呼ばれているものである。平野啓一郎は、アイデンティティもまた個性と同様に、自分自身にとってどこか不確かなものとして感覚されており、なかんずくそういった「アイデンティティの動揺は、時代を問わず、誰もが成長のプロセスで経験する」ものだ(※1)とも言っている。
 そのような「自分自身の個性=アイデンティティをめぐる煩悶と動揺」は、人々が誰しも経由することとなる「成長のプロセスの現場」、つまり具体的には「学校」において経験されることになるのだろう。人は「誰もがそのように経験することとなる成長の現場=学校」において、自分自身を特徴づけるものとして表現できるような個性を見つけ出し、まさしくそれを「自分自身のもの」として獲得しなければならないというように、一般的には考えられているわけである。
 そしてそのように、「誰もが」という側面と、その一方で「自分自身の」という側面とが、個性の形成という局面において同時に要求されているという点は、大変重要なことだと言える。この矛盾した「不条理な」要求に表れている断層こそが、実にその個性というものの「価値」を決定しているわけなのである。
 さらに学校という、時間的にも空間的にも限定された場において、まるで急き立てられるように矢継ぎ早にそれらのことが請求されていくことにより、そこで急ピッチの突貫工事の如く形成されていかざるをえない子どもたちの「個性」なるものは、結果として「ある特定の意味=内容に制約され集約されていく」ことともなるのである。

 平野は「アイデンティティを考える上で、社会的属性は大変大きな意味を持つことになる」と言う。それはどういうことかというと、「個性なるものが社会に役立つものである限りにおいて認められるものだからであり、教育現場で個性の尊重が叫ばれているのは、将来的にその個性をそれぞれが就く職業に結びつけることが要求されているという前提にそれは由来するものだからである、なぜなら職業というのは、一人一人の曖昧模糊とした個性に見やすい形を与え、社会はその形を通して、その人物を認識するものだからなのだ、そのように『自分のやりたいこと』を見つけ、努力してその『夢』を実現し、社会に出て『自分のしたい仕事』をすることこそが、社会的に定義づけられた『個性的に生きる』ということの意味なのだ」(※2)というわけである。
 それを言い換えてみると、学校という「人間の成長に関わる具体的な現場」において、その現場を経由することによって成長するべき人間、すなわち子どもが社会的に要求されているのは、誰が見ても一発でわかるような社会的属性=職業適性を自分自身の個性として身につけること、なおかつその社会的属性=職業適性と個性と自我とを一つに結びつけて見出すことなのであり、職業という社会的な属性において自分自身が何者かになることで、それを自らの個性=アイデンティティに同定させていくことが、人が学校にいる期間内において最優先に求められる「成長プロセス」なのだ、というように理解することもできるだろう。そしてそのプロセスの結果において「職業に結びついた個性としての、何者かである自分」が、「自分自身の本質に同定されていく」ことになる、というわけである。
 そういった成長プロセスの様態について世俗的によく言われることとしては、「努力して自分の夢を実現する」ということになるわけだが、それは要するに「努力をして自分の目指す職業に就く」ということ、つまりは「その職業に就いた自分自身に、自分自身の本質が実現されているものとして見出すこと」だとも言える。とすればそこでは「自分自身が夢を実現する」というよりも、むしろ逆に「夢が自分自身を実現する」ということにもなっているのだろう。そしてそのような「夢」とはまさしく、「何者かであるところの自分自身の姿の投影」に他ならず、その「何者かである自分」こそが、自分自身において「実現されるべき個性のありよう」なのだ、ということにもなっていくわけである。
 自分の「社会的属性=職業適性」を、自分自身の「個性=アイデンティティ」として、すなわち「自分自身そのもの」として社会的に認めてもらうためには、そのように「他人に認めてもらえる何者かに自分自身を同定させること」の他に、具体的に言えば「他人に認めてもらえるような職業に就くこと」の他に、人は結局、自分自身を社会的に認めてもらいうるような術というものを、全く持ち合わせてはいないのだ。そしてまたそのように、「社会的に認められた自己を、自分自身のやりたい仕事に同定させることができた」というのならば、まさにそれこそが「自分の夢を実現させた」ということ、すなわち「自分自身を実現させた」ということと同じことになるのだ、というように受け止めること以外に、人は社会的な意味において「自分自身のことを知る術」を、全く持ち合わせてもいないのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 平野啓一郎「私とは何か」
※2 平野啓一郎「私とは何か」


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