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世迷ダンス

「ヨマイです。よろしく」
「ヨマイ…カタカナですか?」
「世界に迷うと書いて『世迷』です」
 
私が舞踏を始めたきっかけは中学時代、寺山修司の舞台を観たことにある。想像的な言葉の数々より、私はそこに突っ立つ創造的な肉体に感銘を受けた。それから土方巽、大野一雄などの暗黒舞踏界隈を学び巡り、独自の舞踏形式を獲得した。
 
例えば音楽が聞える。それは静寂でもある。大地から海水が沸き上がり、私の脚を這いあがってくる。重力に逆らって、血管をなぞる様に、泡を立てながら。腰にまとわりついたそれはスカートの様に円錐に広がる。私はその感触を確かめながら脚を上げたり下ろしたり、時にはステップを踏んだりする。力を込めて振り上げたそれは形状を崩し海水らしく地面に飛散した。私は大地に散った海水の名残を眺める。それは次第に斑点になり、無に帰する。つぶさの結晶を残して…。
 
…さて、私は何をしてるのか?想像と戯れているのだ。舞踏は本来、自己を空洞にするところから始まる。だから厳密にいうと私の舞は舞踏では無い。私は自己を捨てない。強度ある自己ありきの想像との戯れ、それが私の舞だ。
 
芸術大学とやらの授業は退屈極まりないものだった。学科を間違えたか?それは舞踏ではなくバレエの真似事だ。私がしたいのは舞踏、『舞』なのに。何故踊り手が靴を履く?足の裏の感触程想像を喚起させるものは無い筈だ。日本人の癖に、重心を闇雲に上げるダンスの形式を、私は馬鹿らしく眺めていた…そう、私は失礼なことを言っている。自覚はある。初中後怒られている。だが、私は自分の感覚に素直でありたい。だから私には敬愛すべき師も心許す友人も、一人としていなかった。これからも出来ないだろう。
 
私は真理のために闘っている。だから孤独なのだ。寂しいのだ。しかし、だから強くもなれる。…どこかの作家の受け売りだが、私はこの言説に同意する。私は孤独な真理の探究者足りたい。
 
ある学生グループが私を揶揄して言った。
「見ろよ、ヨマイダンスだ」「また裸足かよ、汚ねぇ」「基礎位勉強しろよ」「でもその薄着は良きね」「もう裸でいいんじゃない?」
 
言い忘れてたが私の身体は女性のそれだ。馬鹿な学生どもが馬鹿丸出しの言葉で私を嘲笑う。それは別にどうでもいい。それが素直な気持ちなら、それをそのまま口にするのはいい事だ。だが、ある一言にはカチンと来た。
 
「女の舞踏家っていいよな。全裸に金粉でも塗って街歩けば、それだけで金貰えるんだろ?」
 
私はその男の顎に一撃を見舞った。女性が男を殴るなら、正面から殴りつけるのはよくない。握りこぶしを作り、手首を固定し小指の面で殴り抜けるのだ。目の前にテーブルがあるなら試してみてほしい。握りこぶしを作り、親指がある方を上にし、小指の付いた面をテーブルにつけてみてほしい。そのテーブルについてる面で、相手を顎を殴り抜ける。そうすればか細い手でも怪我の確率は少なく済む。話が逸れたが、私はこの一件で大学きってのホープの顎を砕き、停学処分となった。いい機会なので自主退学を申請し、私は自由になった。お陰で残る数年馬鹿な授業に馬鹿げた金額を払わずに済む。
 
自由になった私は孤独な創作活動に励んだ。世に迷った舞踏家『ヨマイ』として、私は社会に躍り出た。

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