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凪を待たなくとも、波に揺られていればいい。
いつかの妊婦時期に似た、暴力的な睡魔に支配されていた数日間。
やりたいことなんてそこらへんに脱ぎ散らかして眠っていたい。
ここ最近の往生際の悪い寝起きがうそのように
今朝はぱちっと目が覚めた。夏至のせいにしてもいいかな?
ここふた月ほど、とても心が静か。
SNS、メッセージ、書籍、ラジオ、取りに行かずとも飛び込んでくるもの、リアルにかけあう言葉を含めたあらゆる情報が軽い。
情報量はあまり問題では
自分の中の湧いてくるものを言葉にかえてnoteに置きに来る。
こんな戯言すみませんと詫びるでもなく、誰かのためにと書いているわけでもない。
自分中心だと思うが他人軸で書いては意味がない。
だからこそ大事なのかも知れないね。
いつも読んでくれて、見つけてくれてありがとうございます。
散らばるあれこれをかき集めつつ、回想。
数日前、冷凍庫に入っているパン粉を取ってと頼んだところ、夫が盛大にぶちまけた。
「え、何やってんの」とならずに
「あはは、災難だね〜。どのくらいこぼしたの?笑」と言う程度には夫への態度は変化したと思う。
夫はというと、床に落ちたくず達を掃除しただけ。冷凍庫の底に溜まったその他大勢を片付けていないことに関しては本人はおろか私もうやむやにしたまま数日過ごしていた。
二人ともうやむやにしたのは単純に
私のことを褒めてくれた人たちへ
やば。いつにも増して自意識過剰みをはらんだタイトルをつけてしまった…。
自分のことを褒めてもらった時
その人に対してどのような反応あるいは言葉を返すだろう。
「いやいや、そんなことないですから」謙遜という名の卑下系か
「(えへへ)どうもありがとう」受け入れ承認系か
「え〜、そうですか?」どっちにも転べるグラデーション系か
もちろん上記以外のバリエーションはあれど、
私の体感では(私が褒める側の場
わたしは今、どこにいる?
子どもの元気な一声で今日もはじまる。
一点の曇りのない声と言葉で、さっきまで見ていたと思われる夢の話やおはようの挨拶をしてくれる。
私はというと、しゃっきり起きることができないばかりか目をこじ開けることもできず布団の中に顔を埋め手だけ出したかっこうで子どもを抱きしめる。
息子が赤ん坊だったころの気合と心配事は一体いつどこに置き忘れてきたのだろうねぇ…。
ひとり起きてどこかに登ってやしないか、パ
はじまりは小さなこの手
子供の頃ジェニーちゃんという人形で遊ぶことが好きで、家にあった余り布でジェニーちゃんのスカートを作ったのがはじまりだった。
洋裁をしていた母の布ストックの中には”はぎれ用の袋”があり、
そのちょっと乱雑な重なりを一枚ずつめくっていくと大小さまざまの水玉、ストライプ、ゴブラン織りの花柄、私のお気に入りのスカートの片鱗などが次々と出てくる。
大人から見たらはぎれだとしても、
突然見つけた押入れの中の
光の中に住むわたしたち
たとえば成功者という響きが
正直あまり好きではなかった。
嫌いというよりなんか胡散臭いなぁと思っていた。
だが考えてみたら、胡散臭いものを信じないかというと全くそうではないのだ。
日々生きていく中であてにしているものって「何となく」という「感覚」だし
人付き合いでいうと第一「印象」や、目の前の人の「顔色」を「伺った」り、
「空気」を「読ん」だり。
ほとんど無形のものだ。
私はセラピストという側面
限りなくグレーに近いゾーンにて
何というまどろっこしいタイトルだろうか…、
久々にワインを飲みながらゆるりとnoteに向かっている。
(酔わないつもりの飲み。)
皆、今日も今日とて様々な感情とともに生きている。
目の前で起こる事象、いつぞやの誰かから言われたひと言や、これからのこと
ぼぅっと流し見ているSNS…など。
何かにつけて感情がともなう。
喜怒哀楽とも名前のつかない、どこに属するかわからない気持ち
その色味が薄ければ
こわれたりなんかしない
※パニック発作の描写を含みます。読む方によっては不快な表現があるかも知れない事、念のため記しておきます。
小学校5年生の夏休みのことだった。
私は父の会社の社宅に住んでいて、隣の棟に住む同じ年の友達が遊びに来ていた。
ジリジリ蝉の鳴き声がして、開け放っている窓から扇風機から交差する風が吹いてくる何の変哲もない夏の日だった。
遊んでいるうち、自分の家のはずが自分の家じゃないような
自分の発する声