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散らばるあれこれをかき集めつつ、回想。

数日前、冷凍庫に入っているパン粉を取ってと頼んだところ、夫が盛大にぶちまけた。

「え、何やってんの」とならずに
「あはは、災難だね〜。どのくらいこぼしたの?笑」と言う程度には夫への態度は変化したと思う。
夫はというと、床に落ちたくず達を掃除しただけ。冷凍庫の底に溜まったその他大勢を片付けていないことに関しては本人はおろか私もうやむやにしたまま数日過ごしていた。

二人ともうやむやにしたのは単純に面倒で後回しにしたまでだが、
わりと最近までこういったことが起きた時の私の苛立ちはすごかった。
自分でもコントロールできないほどだった。
産後のストレス?
産後なんていつまで呼べる? いやいや息子は5歳だ。
何のせいにもできないそれは水を得た魚か、ときにはモンスターか。スイッチひとつで起動され、みるみるうちに膨らんでいく。
ヒステリックに叫ばんばかりのエネルギーを感じているのに、脆い理性で蓋をしていた。
叫ぶことに慣れてしまえば慣れた方法でしかやらなくなる、歯止めが効かなくなることが怖かったからだ。
だけれど蓋の下にあるものはいつでも溢れるきっかけを待っていたのだと思う。

似たようないつかを思い出す。
_____はいはい、私がすればいいんでしょう。
この心の声に集約されていた。
ほぼほぼ夫の収入でわが家の生活はまかなわれている。
週に1日の仕事、しばらくは育児をメインにしたいと自ら選んだにも関わらず
家事や育児で自分自身がキャパオーバーになっている後ろめたさや卑屈。
私を含め家庭内にじわじわと浸透していく当たり前。
_____はいはい、私がすればいいんでしょう。
と片付けるのは時短なんだと気づいた。
気持ちを分解して点検する余裕がなかったから。

揺るぎない当たり前なんて無いんだ。
私のこれまでは確実に「当たり前と思っていた日常」に守ってもらっていた。

そのことに気づいてから少しずつ解けていったのだと思う。
自己嫌悪をやめてみた。握りしめていたものはもう手放していいのだと。
手放すことでようやく頼ることを覚えた。
相手を受け入れることは自分を受け入れること。自分のふがいなさもずるさも小脇に抱えたまま。

ひとり昼食後の片付けをしながらiPhoneにダウンロードしたばかりのvoicyで偶然、西野亮廣さんの配信を見つけて
先の冷凍庫の片付けをしながら聴いていたのが「前に進んでいないように思う時、目に見える成果に救われる」という話(※)。

冷凍庫の食材を全て取り出し、底辺に散らばるパン粉をふきんで取っては洗う。
また取っては洗う。
繰り返しているとなんだかすっきりしてきて
怠っていた冷凍庫の掃除までできちゃって
良いきっかけを夫はくれたもんだ、とまで思ったくらい。

感謝を見つけるめがねをかけたなら最期、
どんなに不完全だろうとくそったれであろうと
見えないチェーンで構成される大きな愛にかなうものはない。
くそったれでいられる場所に甘やかしてもらって今日も生きている。

目に見える成果に生産性などなくとも救われてしまう私なのだった。

(※タイトルは「“ビジネス書を読んで行動しない人”の気持ちが分かった」というものでした。)

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