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縁樹の先をなぞって

最近知り合った方と意気投合しトントン拍子に会えることとなり、久々に鎌倉へ。
友人とその彼女主催のオンライン茶話会に参加して出会った。
ちなみに参加のきっかけとなるその友人もまた、出会いはSNSから派生したコミュニティである。
今や何も珍しくない話なのだが、私の場合2021年に入って良い意味でタガが外れたように開かれた世界だった。
それは意外にも、ママ友と意気投合したノリでランチに行く位の親しみやすさであった。
出会う場所は園庭であれ、ネット回線上であれ、向こう側にいるのは人だものね。

___話を戻すと、
午前中に彼女と会い、昼前には鎌倉駅から電車で家路に向かうも
息子の帰って来る時間までは余裕があった。
これもタイミングと咄嗟に隣駅で下車する。
向かった先は円覚寺。敷地内には私がかつて通っていた幼稚園がある。

しかしまぁ5歳の記憶ってこんなに頼りないものなのか…と思うくらいこの場所とはすっかりよそよそしくなっていた。
わりと近くにいるのに、だからなのか、近くて遠かった。
だけれども寺の山門の敷居をまたいだら、まるで当然のことのように若い母と幼い私が、幼なじみの友達家族が、細い木の枝を器用にちゅるちゅる動きまわる野生のリスが現れた。
高いところが好きだった私は山門の梁のところに不思議にくっついている階段を登った上からむこうを眺めてみたいといつも思っていたのだった。

平日正午、広い寺を見渡してみても数えるほどしか人がいない。
初老の男性がひとりベンチに腰掛けている。
静かな境内は鳥のさえずりが賑やかすぎるくらいだった。
一歩ずつ歩みを進めると次第に懐かしさがそばに寄ってきた。

春の日差しはまだまだ優しいな、
目を瞑るとまぶた越しの光があたたかいなぁ、
小さい頃不思議だった、こうやって目を閉じても光の明るさを透かして見られることが。
この場所と私、過去と今の私の距離が近づき、
「ここにいる」というよりも「ここに在る」感覚と繋がる。
何のことは無い、ただそれだけで
なんて軽やかなんだろう。なんと満ち足りたことだろう。

友人と会った後の浮き立つ気持ちと少し時間の余裕と、気まぐれなノスタルジーのつもりだった。
でも私は今日私をここに連れてくることができたのだと、ひとり静かに称えた。

感情に良いも悪いもないらしい。
それならば、湧き出てきたものを歪めずそのままの形で手に取ってみてはどうだろうか。
自分への攻撃や保身のためのポーズ、どこかの誰かのもっともらしい理由で封じることなく。
自分になら、ちっとも悪びれもせずにやれてしまっていたそれらは
ことごとく自分をわからなくさせたのだから。

感情がどう操作するかなど考えなくていい、ただそこに在るだけなのだから。
あの日、自分のど真ん中から眺めた時の軽やかさを今もまだ感じている。
私は私を一番に信じよう。

そういえば、山門をくぐる前に初老の男性がひとり助六を食べていた。青々とした樹の下で。
そこで私は空腹をおぼえたのだった。
結局タイミングもあってお昼をとらずに帰ってしまったのだけど、あの助六を私も食べたいなぁ。静かでぽかぽかとした陽のなかで。

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