見出し画像

わたしは今、どこにいる?

子どもの元気な一声で今日もはじまる。

一点の曇りのない声と言葉で、さっきまで見ていたと思われる夢の話やおはようの挨拶をしてくれる。
私はというと、しゃっきり起きることができないばかりか目をこじ開けることもできず布団の中に顔を埋め手だけ出したかっこうで子どもを抱きしめる。

息子が赤ん坊だったころの気合と心配事は一体いつどこに置き忘れてきたのだろうねぇ…。
ひとり起きてどこかに登ってやしないか、パンパンのおむつをかえてあげなきゃ、なにより先におっぱいだ、と子どもと共に早朝に起きて朝の家事をすべて終わらせてもまだ8時位であった。
成長はその渦中では気づかない。
いつだって橋を渡った後にそのサイズ感を知る。そして渡るときに不要な荷物は降ろしていく。
降ろしたくなくて渡れなかったものもあるかも知れない。
かつては橋を渡るために装備したというのに。
今は気合も心配事もさほど必要ではないのだろうね。

そんな私は今月に入ってフワフワしている。いや、ほやほやかな。
ボケボケしているのでもなく、一応最低限のやることはやっている。
思考が忙しくないかんじ。
どうやらそのほやほやは余白のようだ。
ついつい読書や映画、何かしらの学びでその空きスペースを埋めてしまいがちな貧乏性の私なのだが、今は贅沢にその余白を味わうのもいいかなと思っている。

大人になるにつれ対応力や折り合いをつける柔軟性が身についてしまうあまり、
気持ちの在り方や思考といった心の部分で何とかやれてしまったりする。
それらは経験の中で必要に応じて身につけたスキルというだけで、別にそういう人間ではないからいつだって手放していいんだよね。

会いたい人と会ってみる、行きたいところへ行ってみる、などフィジカルな欲求にギアを入れてみる。(今ちょっとそれが憚られる部分が大きいけれど)
疲れに気づいて休息をとるのも行動だと思う。
パンプアップしたマインドに身体からツッコミを入れてみる。
身体の知っているいろいろ。俯瞰からど真ん中の私が呼応する。
その掛け合いがリズミカルに調和する時、とても軽やかだなぁと思う。

40歳を目前にした私がパワフルな5歳男児と1日中公園で遊ぶのなんて気合こそ捨てて無心にならなきゃついていけないもんで、とびっきりの効き目である。(荒療治とも言える)
そういう時のわが子の無邪気さとあけすけさは何よりの先生になる。
今日も今日とてほやほやの日々に寝そべって、
ノンフィルターで世界を見渡してみよう。




この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?