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本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性4 そ第201話③ 240928 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性4 そ第201話③ 240928 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
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 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 240928 

そ第201話③

 【参照】 2光秀の年齢と嫡男光慶 ← (1)光秀の素性 ←
   1素性  そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
   2争乱  そ第155話① そ第155話②
   
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
  
      そ第158話① そ第158話② そ第158話③ そ第158話④
        
そ第158話⑤ そ第158話⑥ そ第158話⑦ そ第158話⑧
        そ第158話⑨ そ第158話⑩ そ第158話⑪
   4没落  そ第200話① そ第200話② そ第200話③
        そ第201話① そ第201話② そ第201話③ そ第201話④
        そ第201話⑤

裏付け3 「多聞院日記」「兼見卿記」

 ここでは、遊行上人と光秀・順慶の動きについて、検証する。

 天正八年1580
 
一月十六日。
 筒井順慶が、安土へ向かった。

  十六日、
  一、筒井、幷(ならび)に、当国衆、
    安土へ、年頭の礼に、昨今、越しおわんぬ、
                          (「多聞院日記」)

 同、十七日。
 光秀は、坂本にいた。
 吉田兼見が、年始に来訪した。
 おそらく、二十五日の安土下向について、光秀に、相談したものと思う。

  十七日、戊午(つちのえうま)、
  明日、禁裏の爆竹、在所に申し付け、各(おのおの)、罷り出でおわ
  んぬ、

  惟任日向守へ礼のため、坂本に下向、
  路地、寒風、以ての外なり、
  午の刻(12時頃)、津に着く、
  (光秀に)面会、百疋持参、
  妻木、五十疋・御祓い、
  安土に下向、奏者に預け置く、
                          (「兼見卿記」)

 同、二十三日。
 遊行上人は、誓願寺から金光寺へ。
 
  正月廿三日、御行事成就し、七条へ御帰寺 (京都金光寺*4)
                 →
光秀の雌伏時代1 そ第200話①

 同、二十四日。
 遊行上人は、六寮を坂本へ派した。

  同(一月)廿四日、坂本惟任日向守へ、六寮*遣はされ、
  南都(奈良興福寺)御修行有りたくの之条、
  筒井順慶へ、日向守一書、有るべきの旨、申し越さる。
                 →
光秀の雌伏時代2 そ第200話②

 「遊行上人三十一祖京畿御修行記」そ第200話③に、

  折節、大和筒井方、安土へ年始之出仕、
  則、惟任、取次なれば、来儀、幸、
  六寮、直に、行き合ひ、
  遊行上人、南都御修行、日州、助言故、
  順慶、別儀無く、御請、申されキ。

 と、ある。 

 これは、「多聞院日記」一月十六日の記述と合致する。
 順慶は、光秀の与力。
 おそらく、同二十四日以降、安土からの帰途、坂本に立ち寄った
 のだろう。

 故に、これも、整合。
 史実である。 

 同、二十五日。
 光秀は、坂本にいた。
 兼見は、信長に、年始の挨拶のため、安土へ向かった。
 これを、取り次いだのは、堺の代官 松井友閑。

  廿五日、丙寅(ひのえとら)、
  未明、安土に下向、発足しおわんぬ、
  申の刻(16時頃)、下着、
  友閑へ、使者を以って、明日、御礼に登城すべきの由、返事、
  友閑より、使者、
  明朝、友閑宅に至って登城すべし、
  朝飡(ちょうそん)を用意すべしの由、申されおわんぬ、
  一往、斟酌、
  重ねて、申し来たるの間、登城すべきの由、返事しおわんぬ、
                          (「兼見卿記」)



 ⇒ 次へつづく

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