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好きなもの迷子?苦手なものが多すぎて幼少期からの辛かったことをファッションを通じて思い出してしまった話

私はプロフィールに書いているように、全体的に不器用で、不得意、苦手なものが多すぎて、小さい時から苦労してきた。

最近その手のことで、メンタルに響くほどショックなことが連続で起こり、かなりグロッキーな状態で過ごしている。辛すぎて、何も手につかない。

それは幼少期からの「人がサッと見て、サッとできる」といったことの不得意さ、センスや美に関する興味の無さや不得意さ、体育や図画工作、美術がとんでもないほど不得意で、何もできなかった自分、人付き合いの下手さが、今まで少しは自分で学んだり、努力して少しは改善なり克服なりされていると思ったが、

「ほぼ、な~んにも変わっていない。」

ということを突きつけられた現実が、その「ショックなこと」をキッカケに露呈し、落ち込んでいるのである。(落ち込んでもしょうがないが…)

この“面倒くさい自分”には長年付き合ってきて、正直辟易しているが、自分自身のことなので、どんなに時間をかけても向き合って、付き合っていくしかないのは分かっているが、これが何年経っても、なかなか難しい。

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そのうちの一つが、ファッションに関することだった。

先日ワークショップがあり、「面白そう、楽しそう!」と思って、参加する日をワクワクして待っていた。

以前も開催されたが、「内容からして、私の不得意分野だなぁ…。」と思い、その時は参加は断念したが、今年は「やらず嫌いしないで、一度チャレンジしてみたい!」と思って申し込んでいたものであった。

ただ、「雑誌を切り抜いて、コラージュを作る。」という点で、私の大好きな本である"雑誌"を切り抜くことへの抵抗感、コラージュみたいなセンスを問われるものを果たして自分は作られるのか、不安だらけではあった。

しかし、「好きなファッションに関する本を、家でカラーコピーしたら良いかも?」

「コラージュといった作品を作るのはとても苦手だけど、やってみないと幼少期と同じかどうか分からない!昔のことは忘れてやってみよう!」

と思えたので、参加資料を見ながら、レッスン内容を予習しつつ、準備することにした。そうしないとおそらく時間内に私の場合できないだろうと自分の性格を知ってるだけに、色々考えながら用意した。

レッスン内容も詳細は受けてみないと分からないので、その準備が正しいかどうかは分からないが、やってみて予想通り、やはり切ったり貼ったりするだけでも大幅に時間がかかった。準備してなければとんでもないことになっていたなと、改めて思った。

レッスンに参加して、新たな学びをしたいと思った私は、真剣に考えて準備をするのに、3日(うち一日また徹夜…)かけて、その日に臨んだ。

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最初は穏やかで、楽しかった。先に作っていた分、焦ることなく、気持ちに余裕を持って、レッスンに参加できた。

しかし、途中から言われている内容が自分には分からなくなってきた。

どうも講師の仰ってる内容を聞いていると、私が長年「好き」と思っていたものが、全くないわけではないが、良く分からなくなってきた。好きなブランドも「今、実際着ているもので好きなブランドにしてください。」と言われて戸惑った。

私は目を患ってから、あちこち行けなくて、初めて友人にGUに連れて行ってもらってから、GUのファンになったが、レッスンの雰囲気的に「GU」と言いにくかった。

「着回しがいいからとか、安いからとか関係なく、自分が好き!って思える服はどんな感じかで考えてください。」と仰った。

着回しが良いはダメ?
安いからもダメ??
それを度外視した自分が好きって思えるものって何???

考えれば考えるほど分からなくなってきた。

何となく、好きなテイストは分かったが、自分が3日かけて作ったコラージュを見ても、見れば見るほど分からなくなってしまった。

結局レッスン時間内に、「自分の好きなもの」を見つけることができなかった。

むしろ、レッスンを受ける前よりも、もっと分からなくなってしまった。

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レッスン後、モヤモヤ感だけが残り、自分がどうしてこのレッスンについていけなかったのか、自分の中に落とし込めなかったのか、考えてみた。

すると、忘れていた幼少期の辛かった思い出が、頭の中にいっぱい浮かんできた。

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私は小さい時から、見た目を気にしない子であった。服も全く興味がなく、「裸じゃなきゃ、ええんちゃうん?」位の感覚を持った人間だった。

母は私と違って、元々センスが良く、「娘にかわいい格好をさせてあげたい!」という親心から、よく路面店やデパートの服売り場に私を連れていき、とっかえひっかえ「この服を着なさい。」と言われて、しぶしぶ脱いだり着たり、言われた通りにしていた。

その時間は長く、実際の時間は分からないが、多分1~2時間はかかっていたと思う。たとえそんなにかかってなかったとしても、私には果てしなく長い時間に思えた。

更衣室の縁に腰を掛けて、頬杖をついて待ってばかり…ハッキリ言って店の下側に座っているので空気は悪いし、退屈で、つまらないだけの時間だった。私はそれより、本売り場や、楽器売場、おもちゃ屋に行きたいのに、いつもそこへは5分くらいしか連れて行ってもらえない。

今でこそ、母の親としての気持ちは分かるし、大人になってから少しは母と服を買いに行ってファッションを見に行くのが楽しいと思えるようになったが、幼少期は服屋に行くことは「地獄、拷問」としか思えなかった。

だから服屋の前で母が止まるとイヤでイヤで仕方なかった。「またあの地獄が待ってるのか…」と思うと、逃げ出したくなったことは数え切れないほどある。

今は言われにくくなってきているかもしれないが(知らんけど)、

「女の子なんだから、ファッション好きよね?」

って思われることが、苦痛以外、何者でもなかった。確かに女で生まれてきて、女の自覚もあるし、好きな人も男の人だけど、「ファッション、美やセンスを問われるものは苦手」という人間もいるということが、周りに理解されにくいし、言ったところで「変な子」と言われるのがオチなのだ。いじめられても困るのでずっと誰にも言えないでいた。

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ファッション同様、センスを問われる「図画工作、家庭科、美術」も体育に匹敵するほど大の苦手科目だった。

のりしろ、ぬいしろは切り落としてしまうし、未だに定規やハサミでまっすぐの線を書いたり切ったりできないほどの「超不器用」なので、図画工作や美術の授業時間も私にとっては「地獄」としか思えなかった。

何をしても満足に人並みにできないし、勿論評価されないし、「何、あれ?」と言われているのを、うつむいて黙って聞くことしかできなかった。

「何でこの世の中に、こんなイヤな科目があるのだろう?」とずっと思っていた。

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ただ、中3の時の美術担当の先生は、強面コワモテで見た目怖かったし、いわゆる不良系の生徒に厳しく怒っているのを見ると、怖くて仕方なかったが、ある日を境に先生への見る目が変わった。

「例えばこういった感じのポスターを作るように。期限は◯◯日。下手でもいいから期限をきっちり守った者には、それ相応の評価をする。」

という宿題を出された。

センスのない私は、「期限を守る」という所に、全てを賭けた。絵のコンセプトは考えたが思いつかなかったので、先生が例題で仰っていた通りにひたすら描いた。そして期限までに先生のところへ持っていった。

「先生、すみません。私、絵を描くのがとても苦手で…先生の仰った通りの絵しか描けませんでした。…でも期限守ったら、その点も点数として考慮して頂けるんですよね?」

「あぁ、かまへん。そこはちゃんと評価する。」

「ではよろしくお願いします。」と言って、職員室を出た。

その学期の通信簿は今まで美術系でもらったことのない、私にとって初めての高得点だった。

「努力を買ってくださる先生もいるんだ。」と、今でもあの時の感動は忘れない。

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そうして大人になるにつれ、「ファッション無頓着」な私は数々の失敗を繰り返してきたが、そのうち必要に迫られて、身なりを整えないといけなくなり、母、店員、ファッション雑誌、それに関する本を読みまくって“勉強”した。

そのうち、その中で好きなものにも出会って、趣味の合う友人とファッションの話をしたり、見に行っても楽しみながら服屋に行けるようになった。

ただ好きなテイストがある程度決まっているので、流行にはあまり左右されなかった。たまたま好きなテイストが流行になってたら、服を買っていたが、好きな流行じゃないと、全く服屋に足を運ばない。

買う時は、店員や母、友人の意見を参考に、上下合わせて、「好きな流行」の時にまとめ買いし、好きではない流行時は全く買わないという購入方法を繰り返していた。

また着回しや色のセンスも元々無いに等しいので、周りに聞いたり、本を読んで勉強することで、克服しようとしたし、ある程度は克服できた、とも思っていた。

しかし、そのレッスンを受けることで、「何が好き」なのか、見失ってしまい、分からなくなってしまって、レッスンについていけなかったこともショックで放心状態だった。

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色々考えた結果、幼少期からのイヤな思い出、自分の苦手なもの、コンプレックスの塊で「人が通常持ち合わせているであろうものを持っていない自分」は「努力」で追いつくしかなかった。そんな今までの自分史を思い出し、気がついたら目から涙が溢れていた。

コラージュも、レッスンを聞いてから作ってないのもあるが、みんなが作っているものとは、およそかけ離れているもので、遠い昔の「授業で披露しなくてはいけない自分のイケてない作品、それを掲示されてイヤな思いをしたこと」を思い出して、見れば見るほど余計涙が止まらなかった。

「やっぱり、アカンもんは、アカンねやーっっ!!」と叫びそうになった。

そんな私はファッション等、美やセンスを問われるものは努力した上で、その中から見つけた好きしかないのである。「何となくは好き」はあっても、言語化できない、見た時に感じるものでしか表現できないものなのだ。

それは、書き出してみると、普段の私らしい思考らしさ=「見た目より機能重視」満載だと思った。

・着てて楽で、窮屈さを感じないもの(サイズがあるかも含めて)
・汚れても気にしなくて良い服、最悪また買い直せる服
・着痩せして見える服
・好きなブランドは色々あるけど、今はやっぱりGUやユニクロが好き
・とにかく色は青や緑が好き
・着回ししやすく、色も合わせやすい服が良い
・難しく考えなくても、合わせたら何とか形になって、人前に出ても恥ずかしくない、できればちょっとオシャレに見える服

が、今の私が望んでいるものなのだろうと思った。

好きなテイストや、似合うものは、以前本で勉強したのと、ほぼ変わりなかった。

これはレッスン内容や講師が悪いのではない。センスのない私の問題なのである。たまたまレッスンに応じるセンスや能力が、私には備わっていなかっただけのことで、私に合わなかっただけなのだ。

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このことを通して、私は

「やっぱり苦手なものは苦手。努力しても何とかなるものと、ならないものがある。」と自分の中で結論付けた。

ワークショップ内では答えは見つからなかったが、多分今まで書いてきたことが私の答えなのかと思う。

作ったコラージュを見ながら、私はまだ泣いていた。

帰ってきた夫に「ねぇ、私、頑張ったよね?」と聞くと、

「らびちゃん、頑張ったじゃん!貼ってる服もいいものだと思うよ。」と言ってくれた。

夫があの美術の先生と被って見えた。

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もう、コラージュは懲り懲りと思った。また忘れて、参加したくなったらするかもしれないが、また傷つく自分が予想できてしまう。傷ついてもいいからやりたいと思える日が来るまで、「作るものではなくて、見るもの」と思うことにした。

出来上がったコラージュを捨てようか迷ったが、いちいち本を開けなくても、クローゼット付近に貼っていたら、「今日はこの着回しをしよう!」といった早見表に使えるかもしれないと思い、敢えて置いておき、部屋が片付いた暁には、開けないと分からない所にでも貼って、今後の参考にしようと思った。

このブログを書くにあたり、自分の好き苦手、得意なこと、思考のクセが見えてきた気がするが、ファッション雑誌を見ても、以前のような気持ちで今は楽しめないかもしれない。

ゆっくり時間をかけて、改めて「自分の好き」を見つけたり、感覚を取り戻していけたらいいなと思うのであった。

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